榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/8/25 週報メッセージ

神との信頼関係

川﨑 信二 

以前、高齢者施設で宿直のアルバイトをしていた。夜勤だったが、ただ居るだけの仕事内容で、私としては有難い仕事だった。入居者の方に対して、看護士や介護士のように直接ケアすることはなく、「私はあまり役に立っていないのかな。不甲斐ないな」と思うこともあった。

ある方が事務所に来て「すみません、これ開けてください」とジャムの瓶をもって来られた。固く閉まっている蓋を「よいしょ、はい開きました。どうぞ。」と渡すと嬉しそうに部屋に戻って行かれた。私にしか出来ないことでもないが、時間帯もあり事務所にずっと居る私に頼みやすかったのだと思う。それでもそれが単純に嬉しい。相手を喜ばせることができて「こんな者でもお役に立てたかな」と充足感を覚えた。

心理学者アルフレッド・アドラーを日本に紹介した精神科医野田俊作は、自己受容、信頼、所属、貢献の感覚に分けることを提案している。ありのままの自分でいられる「自己受容」、周りの人に任せることができる「信頼」、自分の居場所がある「所属」、周りの人の役に立つことができる「貢献」。これらの4つの感覚が充足されることによって、「自分はここにいて、役に立つことができる」という所属の課題を果たすことができる。ことに信頼は、自己受容ができてから徐々に周囲の人たちに対し信頼できるようになるという。信頼とは、「周りの人に安心して任せることができる」という感覚。自分だけで背負い込むのではなくて安心して相談できることが大事で、人に任すこと、人から任されること、そこに信頼がある。

主イエスは私たちの重荷をすべて十字架上で担って下さった。だから私たちも主に全面的に委ねればよい。その主が今度は私たちに宣教の業を委ねて下さる。奉仕を与えて下さる。私たちも、「主の用なり」(ルカ19:34)との召しに応える子ロバのように、どんなに小さくても、イエスを乗せる尊い務めを受ける者でありたい。こんな者を信頼し任せてくださる。その信頼に喜んで応えてゆきたいものである。

主に自らをゆだねよ。

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)

2024/8/18 週報メッセージ

いま でかけよう!

川﨑 理子 

 パリ・オリンピックも終わり、次はパラリンピック。私はメダル云々よりも平和の祭典としてウクライナ、イスラエル、ロシア等の選手達が気になりました。

 オリンピック期間中に広島、長崎で79年前に原爆投下された記念祭があり、長崎の記念祭では合唱が小学生と、中高生とでありました。小学生の合唱は人数が少なかったのですが、胸に迫るものがありました。記念祭での合唱は鎮魂歌の意味合いがあるとのことです。

 教会では鎮魂ではなく神様への祈りです。既に魂を満たして下さっている神への祈りです。祈りと同様に賛美もたくさんします。その内容は神様への感謝、そして喜びそのものです。

 8月に2つのキャンプへでかけました。一つは西東京教区の中高生夏キャンプ。もう一つはホーリネスの群首都圏バイブルキャンプでした。どちらのキャンプも朝から大きな歌声で主を賛美して、目を覚まします。(笑)

はじめは大画面の歌詞を追って、慣れてくると体でリズムをとって喜びを全身で表すようになります。その中高生達の姿を見て私は嬉しくなり、やっぱりキャンプは良いな、来て良かったなと思いました。キャンプで神様に出会った私はキャンプに参加する度に心は一気に10代へ戻ります。

教区のキャンプで歌った曲の一つで、

 ♪君は愛されるために生まれた♫ は、イ・ミンソプさん作詞作曲の歌です。久しぶりにこの曲を歌い、主を賛美しました。手話を通してスーっと心に入ってきました。

「君は愛されるため生まれた。今もその愛うけている。うけている。」

 さあ、今日も愛を受けている私達は、神様が遣わす処へでかけてゆきましょう。

2024/8/11 週報メッセージ

主イエスの霊と共に

川﨑 信二 

この時期、日本ではいわゆるお盆の時期となる。「先祖の精霊をお迎えして供養をする期間」として「年に一度浄土から地上に戻ってくる空腹の先祖を家に迎え、共にひと時を過ごして冥福を祈りその霊を供養」する慣習だ。

キリスト教では、死者の霊は既に主の御許にあり幸福を得ているので、供養することも冥福を祈る必要もないという考えに立っている。それでも供養したいという遺族の慰めのために寄り添い、地上を去られた家族が今天にあり、全き至福(成仏)を得ていると信じることができるよう、また遺された私たちもやがて主の懐に帰る希望を持ち続けることができるようにと祈らせて頂くのだ。

 聖書では、霊といえば人の霊ではなく「聖霊」であり、復活の主イエス・キリストの霊を意味する。聖霊は目に見えないが今も生きて働く神ご自身であり、死霊ではない。

 けれども、聖書の時代にも「お化け」や「悪霊」の存在が恐れられていた。主の弟子でさえそういう迷信に陥っていたのだ。ガリラヤ湖の湖面を歩く主イエスを幽霊と見間違えている(マタイ14:22-33)。まことに失礼な話だが、当時そういう考え方があったことを示している。臆病な弟子たちに主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と優しく招いて下さっている。

 幽霊…痩せ衰えた死霊が帰って来る…本当だろうか。柳田國男の『遠野物語』に出てくる座敷童子のような存在が家に幸福をもたらし、守護霊として家の盛衰を司る、そんな霊が実在するのかどうか、霊感のない私には正直よく分からない。良い霊、悪い霊があるにせよ、主の霊に勝るものはないはずだ。死から復活された主の霊は私たちに完全な勝利を与え、悪霊の軍団レギオンでさえもひれ伏すほどに権威のあるお方なのだ。

 秋田にある、101回涙を流す奇跡の聖母像を見に行った人が写真に収めようとしたが、シャッターが動かなかったという。後日、霊感の強い?友人と共に行ってみると、今度はシャッターが作動して安堵したが、後で写真を見ると卍がたくさん写っていて驚いたという。この世では奇妙なことが起きて怖いと感じることもあるだろう。しかし主の霊にこそ畏れ、聴き従うべきである。なぜなら、聖霊に勝さる霊はないからだ。

 この世の霊を恐れる弱い私自身だが、常に復活の主の臨在を感じつつ平安を得て歩みたいものだ。

2024/8/4 週報メッセージ

教会の暦について    『信徒の友』より

平和聖日とは?

日本基督教団は8月第1主日を平和聖日と定めています。

 1962年10月の第12回教団総会に、西中国教区より「『平和聖日』制定に関する建議」が提出されました。その内容は「毎年八月六日、またはその直前の日曜日を『平和聖日』と定め、特に世界平和のため、核兵器禁止のために祈ること」でした。

 建議の理由として次の2点が挙げられています。

  1. 八月六日は史上はじめて核爆弾が使用され、最大の惨劇がくり拡げられた日である。核戦争の危機が叫ばれている今日、わたしたちは全国の主にある兄弟姉妹が同時に平和の福音に耳をかたむけ、世界平和と核兵器禁止のために祈りを捧げることの重要さを思うものである。
  2. これはさらに全世界の兄弟に訴えられ、その祈りを共にすべきであるが、それには国際的に認められたこの日をもってあてるのが最適であると思われる。

 これを受けて、1962年12月の第12総会期第2回(臨時)常議員会で「毎年八月第一日曜日を平和聖日とすること」が可決され、1963年8月より実施されてきました。

平和を祈るリタニー

8月第1日曜日は、広島の被爆者からの建議により制定された「平和聖日」です。私たちは過去の戦争の悲惨を心に刻み、過ちを深く懺悔します。同時に今この時も、世界中で戦争や紛争、内戦などにより、武器と爆弾にさらされている人々がいることを覚えます。

リタニー(連祷)は、司式者と会衆が交互に捧げる祈りです。キリストの平和を創り出す為に、共に祈りを合わせましょう。

隣人として

武器を作る者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

武器を売る者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

武器を使う者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

その手をじっと見つめ

省みることができますように

誰も殺さない、誰も殺させない

神さまから与えられた命

神さまから愛された命

互いに私たちは隣人です

2024/7/28 週報メッセージ

あなたもあなたの家族も

川﨑理子 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」      使徒言行録 16章31節

 上記の御言葉は第55回日本伝道の幻を語る会の主題聖句です。23日〜24日、新宿西教会を会場に開催されました。主題は「信仰の継承・能登地震リポート」。

 まず舘坂橋教会・村上義治牧師の開会礼拝で、地域にて懸命に種を蒔き続けて、今盛岡市の中で最大規模の幼児教育のセンターになっている話を伺いました。また、大村信蔵牧師は50歳になり注意欠陥症と分かり、幼い頃の自分の行動には沢山要素があったが19歳で主に出会い、かなり努力をしてきて弱さは隠されたと思っていた。しかし50歳で大変な問題を犯して、主より自分の力に頼っていた事を知らされと話されました。岡田仰牧師からは、被害にあった現地の方々は「助けて」が言えない。「現世しかない」と思っている。「世間様」に囚われている。隣人になるには、まさか!まさか!!の時に乗り越えるのはイエス・キリストが与える永遠の命しかない。イエス・キリストによる自信と確信を持つことを教えていただきました。

 「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」

 家族というのは肉親もそうですが、各々が置かれた場所での隣人のことであり、その置かれた場所でこの私が「主の救いは絶対だ」と自信と確信を持って生きることが周囲への証となり、家族の救いに繋がるのだな、と御言葉を通して知らされました。