聖書箇所 サムエル記上 第16章5b~13節
説教題「若い頃のダビデ」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 41番 487番
聖書箇所 サムエル記上 第16章5b~13節
説教題「若い頃のダビデ」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 41番 487番
あなたもあなたの家族も
川﨑理子
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 使徒言行録 16章31節
上記の御言葉は第55回日本伝道の幻を語る会の主題聖句です。23日〜24日、新宿西教会を会場に開催されました。主題は「信仰の継承・能登地震リポート」。
まず舘坂橋教会・村上義治牧師の開会礼拝で、地域にて懸命に種を蒔き続けて、今盛岡市の中で最大規模の幼児教育のセンターになっている話を伺いました。また、大村信蔵牧師は50歳になり注意欠陥症と分かり、幼い頃の自分の行動には沢山要素があったが19歳で主に出会い、かなり努力をしてきて弱さは隠されたと思っていた。しかし50歳で大変な問題を犯して、主より自分の力に頼っていた事を知らされと話されました。岡田仰牧師からは、被害にあった現地の方々は「助けて」が言えない。「現世しかない」と思っている。「世間様」に囚われている。隣人になるには、まさか!まさか!!の時に乗り越えるのはイエス・キリストが与える永遠の命しかない。イエス・キリストによる自信と確信を持つことを教えていただきました。
「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」
家族というのは肉親もそうですが、各々が置かれた場所での隣人のことであり、その置かれた場所でこの私が「主の救いは絶対だ」と自信と確信を持って生きることが周囲への証となり、家族の救いに繋がるのだな、と御言葉を通して知らされました。
聖書箇所 創世記第1章26節~第2章4節
説教題「創造と安息」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 18番 21番
創造の業はこの「わたし」のため
川﨑 信二
星野富弘氏の描かれたアガパンサス(ムラサキクンシラン)の絵は青紫の綺麗な花びらで「こころのたべもの」という詩が添えられていた。
たべられません
あなたが 美しく彩った
草花のほとんどは
たべても うまくありません
でも人は それを庭に植えて
こころのたべものにしています
「あなたが」という主語に改めて神の創造の業を思う。人間の目に麗しく映り、人間の心を癒すためにこの草花が咲いているかのようにも感じる。これらを人間のために配置してくださった神の愛に、一つ一つの自然を通して気づかされた。
アガパンサスは南アフリカ原産だが、名前の由来は
ギリシャ語のアガペ(神の愛)とアントス(花)の合成語で聖書的な意味があるという。三浦綾子さんは重い病気のなかで「私は神にえこひいきされている」と語ったが、美しい草花を見て感じるだけでなく、試練においても神の愛を感じることができるのは神への深い信頼からくるのかもしれない。
7月初旬、雷雨があり牧師館の窓まで水が弾くほどの豪雨だった。短時間であがってくれたが一瞬恐怖を覚えた。人知を超えた自然の力、その背後におられる創造主を仰ぐ機会となった。天地創造において人間は生き物の中で最後に造られた、とても弱い存在だ。しかしその人間に命の息を吹き入れ、特別な存在として愛され、この私をも顧みて下さっていることを、教えられた。
「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」詩編8:4-5
「豊かな交わりの時」
川﨑 理子
教区主催の新任オリエーションへ行って来た。場所は高円寺にある西東京教区事務所の2階。中野駅を降りて迷わず行けたが炎天下で歩くペースが遅く2分の遅刻。
また、15分後に境南教会牧師のH先生、そして更に遅れて仙川教会牧師のT先生が真っ赤なお顔で到着。道を間違えたようだった。先生には京王地区教師会でお会いしていたので再び会う機会が与えられ感謝だった。両先生とも手にはスマートフォンがあった。マップを見ながら歩かれたのだろう。事務所は分かりづらいところにある、と思う。
地図が読めない私は完全に川﨑にお任せ。帰りは皆で一緒に歩いた。話が盛り上がり途中の喫茶店で涼み、話し合っていると様々な繋がりに驚いた。
次の日は武蔵野教会の東村山方面集会へ出席し、久しぶりに川﨑家のおば達や従姉妹にお会いした。伯母は98歳、続く92歳と90歳の叔母達もお元気だった。
私共の就任式に一人で来て下さった伯父は、その後、曾孫の結婚式出席の為に単身でイギリスへ渡り、無事帰国した。伯父は93歳。
新任教師オリエーションでは同労者との交わり、方面集会では信仰の大先輩との交わりと豊かな時間。
ふと、21年前に神様に打ち明けた事が今時を経て成っている事に気付いた。それは「少しでも東へ」という祈りだった。
「救いの基準」
川﨑 信二
今年はパリ・オリンピックの年です。
選手がオリンピック出場を果たすためには選考基準をクリアしなければならず、代表枠をめぐって厳しい戦いが繰り広げられます。
明らかに力の差がある人はともかく、残りの1つの枠を何人もの選手たちが競い合い、後もう少しで届かず、ギリギリで落選し涙を飲んだアスリートもいるでしょう。
その選考基準が分かりにくく、なぜこの人が落ちて、あの人が選ばれたのか。納得のいかないこともあり、最終予選では0.01秒差で洩れてしまったがそれまでの成績はそれなりの記録を出しいるのにそれが考慮されない、という場合もよくあるそうです。オリンピックに出られるか、そうでないかはアスリートにとって人生を左右する大きなことだけに基準は分かりやすいほうが禍根を残さずに済むのに、とも思うのです。
これらは力が拮抗している時だけに起こる事例です。断トツであれば当然起き得ないことなのです。
では、聖書が語る「救いの選び」の基準はどうか。誰が天国に行き、誰が落ちるのか。誰も天国行きの基準を満たしている人はいない。選民イスラエルも神の選考から洩れ、律法学者でさえも神の掟を守りきることはできなかった。
人間は皆、罪人であり拮抗しています。聖人のように突出している人はいない。神の前では全員「黒」。黒を白に変えてくださるからこそ「救い」なのです。主イエスの十字架の血潮こそが私たちの罪を清め、赦すことができるのです。
だから、あの人は地獄行きだ、と審いてはならない。私も、あの人も、赦され、救われているからです。
あの人も、私も、神に選ばれた民であることを忘れないようにしたいものです。
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第14章10節~23節
説教題「平和に役立つこと」
お話 川﨑 理子 牧師
新聖歌 372番 247番
聖書箇所 ルカによる福音書第3章23節~38節
説教題「人間の本質」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 242番 148番
聖書箇所 マタイによる福音書第7章24~29節
説教題 「み言葉を行う」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 316番 468番
フー・ポン信者
川﨑 信二
故 原田 謙先生(更生教会前牧師)が信仰生活についてよくこんな事を述べておられた。
「聖書を読むときにフーポン信者になってはいけませんよ。“常に聖書に親しみ”、常に・・・これが大事ですよ」
フーポン信者とは、先ず聖書を取り出してフーと息を吹いて表紙の埃をはらう。次にポンっと机に置いて、「今日はどの御言葉でいこうか」と聖書をペラペラと捲る(だいたい真ん中を開けるのでイザヤ書が多い)。まるでおみくじのように開く。たまたまマタイ27章5節だった。
「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」
こりゃいかん! 別の箇所を開くとルカ10章27節が目に飛び込んできた。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
えっ?これって???
こういう聖書の読み方をする人をフーポン信者と呼ぶそうだ。私もフーポン牧師ならないように気をつけたい。
そもそも聖書は毎日通読することが基本で、行き当たりばったりの読み方は上記のように危険が伴う。勿論そういう読み方でも、読まないよりはずっと良いと思うが・・・・。
暗唱聖句など、前後の文脈と関係なく、そこの一句だけを取り上げて座右の銘としたり、今日一日の糧とする場合がある。それ自体悪いことではないが注意が必要だ。
例えばCS生徒に提示する際は、そこだけでなく全体を良く読んでから選ぶべきである。どんなに良い言葉が並べられていても建徳的ではない文章があるからだ。
例えば、ヨブ記を見ると「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。」(ヨブ28:23)
聖句そのものは暗唱聖句に相応しく聴こえるが、友人達がヨブの過ちを責めるための言葉でもある。聖書の言葉を、人を裁くために用いてはならないし、知らずして使う恐れもある。それゆえ、前後の流れを読みながら、謙虚に、聖書の主張に耳を傾ける姿勢が大切である。