榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/7/30 週報メッセージ

「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22) 

パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)

2023/7/16 週報メッセージ

「神の業が現れるために(2)」(ヨハネ 9:13-41) 

ヨハネ書9章の前半は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒やす話でしたが、後半では、もっと大切なこと、すなわち霊の目が開かれる話が展開されていきます。

その日は安息日でした。ファリサイ人たちは、盲人の目を癒やしたことはともかく、安息日を守らなかったことに腹を立て、怒ったのです。ファリサイ派の人たちは、形式的な律法解釈にこだわり、心がかたくなになり、神の業(神の栄光)が見えなくなっていました。ヨハネ書は「安息日にとらわれて、神の業を喜ばない」ファリサイ派の人たちのかたくなな罪を指摘しているのです(41)。

一方、盲人だった人は、執拗な、誘導的な尋問を通して、逆に目が開かれるように、イエスに対する認識が「人」から「神の子」へと変わっていったのです。

苛立ったファリサイ人たちは、癒された盲人を外に追い出します。彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目にあうのです。しかしここから彼の新しい人生が始まるのです。

イエスは会堂から追放された盲人に会うために来られた。再会した盲人は、イエスを「主」と知り、ひざまずき、「主よ、信じます」と感謝を込めて信仰告白をしたのです。盲人だった人は肉体の目ではなく、霊の目も開かれ、主イエスに出会ったのです。

ヨハネ書は、七つのしるしの六番目のしるしを通して、霊の目が開かれることの大切さを強調しています。

私たちも霊的なことに対して無知で、鈍感で、盲目ではないでしょうか。いっそう謙遜になって目が開かれるよう祈っていきましょう。

(7/9  山本師説教から)

2023/7/9 週報メッセージ

「神の業が現れるために(1)」 (ヨハネ 9:1-12) 

七つのしるしの6番目を学びます。この6番目と7番目は「七つのしるし」の中で特に大切なものです。

この6番目の物語は、生まれつきの盲人の目がいやされるというお話しですが、このテーマは「目が開かれること」です。目の見えない盲人が、肉眼のみならず、霊の目が開かれていく様子が詳細に語られています。

「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか」との疑問は、弟子たちだけでなく、当時の人々の共通するものでした。因果応報という考えが支配していました。目の障害(結果)は、本人の罪か両親の罪が原因していると考えました。私たちの中にも、障害・災い・不幸があると、原因を追及したり、だれかを批判したり、環境のせいにしたりする傾向がないでしょうか。

イエスさまは、「だれの罪のせいでもないんだよ」と因果応報をきっぱりと否定されました。そうではなく「神の業が現れるため」と宣言され、即座にみ業を行われたのです。「神の業」とは「神の恵み、憐れみ、信仰、救い、いのち」です。この盲人は、生まれたときから、本人や両親に罪があるからと決めつけられ、神に見捨てられた罪人として、いわれなき苦しみを背負ってきました。主イエスの言葉は、思いもかけない、驚くべき言葉でした。

生まれながらの障害については、だれにもその原因はわかりません。神の目から見て、なぜこのような障害があるのか、神のみ業がどのように表れているかを考えていくことが求められています。星野富弘さん、レーナ・マリアさん、水野源三さんらは、重い障害を負いながら、なんと驚くべき豊かな人生を送られたことでしょう。すべて「神の業が現れるため」です。

最後に冒頭で、この物語のテーマは「目が開かれること」とお話しました。聖書は私たちの目が盲目であることをたびたび強調しています。私たちは霊の目が開かれるように日々、求めているでしょうか。 

(7/2  山本師説教から)

2023/7/2  週報メッセージ

「わたしだ。恐れることはない」 (ヨハネ 6:16-22) 

 

再び、ヨハネ書の「七つのしるし」を学んでいきます。今回は五つ目の「湖の上を歩くイエス」の話です。弟子たちを乗せた舟は逆風と高波のため進むことが出来ず、真っ暗な湖上で何時間も立ち往生していました。そこにイエスが湖の上を歩いてこられたという話です。

「こんな話はバカバカしい」「ありえない」と否定したり、軽視したり、飛ばしたりすることはないでしょうか。ついつい私たちは聖書の中の不可能、不可思議、不自然、疑問、神秘的と思われる出来事につまずきやすいのです。この「しるし」が,当時の人々に、そして現代の私たちに何を意味し、何を伝えようとしているかを読み取ることが大切です。

舟内には漁師の経験のある弟子たちも混じっていましたが、逆風と高波は彼らの経験、知恵、力をもってしても、なすすべがありません。コントロール不能の状態におちいっていました。不安でおびえ、助けを求める弟子たちに、主イエスは近づき、「わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいました。それは主の懐かしい、力強い言葉でした。イエスを舟に迎え入れると、嵐はやみ、平安と安心が与えられたのです。

私たちの人生においても、おしよせる困難を前にして、一歩も前に進めない、先の見通しが立たない、不安や焦り、悲観が覆うことがあります。こんな時こそ、その信仰が試され、鍛えられるときです。また主を近く感じるとき、主の恵みと御心を発見できるとき、主とお会いできるときなのです。「わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉を待ちましょう。このみ言葉が、つねに私たちの信仰の支えとなるように記憶しましょう。 (6/25  山本修一説教から