聖書箇所 コロサイの信徒へのへの手紙第2章6節~15節
説教題 「あふれるばなりの感謝」
お 話 川﨑 信二牧師
新聖歌 477番 257番
聖書箇所 コロサイの信徒へのへの手紙第2章6節~15節
説教題 「あふれるばなりの感謝」
お 話 川﨑 信二牧師
新聖歌 477番 257番
聖書箇所 ヨハネによるふ福音書第21章15節~23節
説教題「主の愛によって遣わされる」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 126番 437番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第21章1節~14節
説教題「諦めかけた時に」
お話 川﨑 信二 牧師
新聖歌 128番 49番 127番
「十字架上の死」(マタイ書 27:45-61)
今週から受難週に入ります。
牧師として十字架の学びは特別なものがあります。第一に、福音の奥義である十字架を語ることがゆるされることは、大きな喜びです。第二に、十字架は、あまりに高く、広く、深い真理です。どこまで把握しているかという不安もあります。第三に、十字架を学べば学ぶほど十字架の痛みを覚え、気が滅入ってきます。イエス様の御身体に殴られ、打ちつけられ、突き通された恐ろしい傷を思い浮かべると、胸が締め付けられます。そしてその痛み、苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められるのです。
十字架は、午前9時に始まり、午後3時に息を引きとれられました。正午から突然全地が暗くなりました。それは人間の罪に対する神の裁きが、人間の罪を背負われた主イエスに臨んだことをあらわしています。
主イエスは、十字架上の6時間の間に、「七つの言葉」を語られたといわれています。一つ一つがまことに感動的で重みのある言葉です。
第一は、息も絶え絶えの中で、ご自分のことより、十字架につけた人たちの赦しを祈る言葉(ルカ23:34)、第二は、もうひとりの犯罪人に救いを約束された言葉(ルカ23:43)、第三は、母マリアの将来を案ずる言葉(ヨハネ19:26、27)、第四は、父なる神様に見捨てられた、断絶された悲痛な叫び(マルコ15:34)、第五は、唯一、肉体的な苦痛を訴える言葉(ヨハネ19:28)、第六は、すべての神のわざ(贖い)と苦痛が首尾よく終了した、完了したことの安堵の叫び(ヨハネ19:30)、第七は、最期の言葉は、父なる神への信頼に満ちた、美しい言葉(ルカ23:46)。
この一見、理不尽に思える十字架がなければ、私たちの救いはあり得ませんでした。最後にイザヤ書53章を開いて、この時を過ごしましょう。
(3/24 山本修一師説教)
「三つの挨拶」(マタイ書 26:49、27:29、28:9)
マタイによる福音書26章49節、27章29節、28章9節。これら三つの御言葉の中には、共通する「ある言葉」が含まれています。ゲツセマネで主イエスを裏切った時、ユダは、主イエスを捕らえる合図として「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻しました。この「こんばんは」と訳された言葉。ピラトの兵士たちが、主イエスを嘲り、侮辱して言った言葉。「ユダヤ人の王、万歳」。この「万歳」と訳された言葉。復活された主イエスが、マグダラのマリアに現れて言われた、「おはよう」という言葉。これら三つの言葉のギリシア語の原語はどれも同じで、「カイロー」という言葉です。当時、この言葉は日常の挨拶の言葉として、極めて頻繁に使われていました。ユダは、極めて日常的な挨拶の言葉をもって、主イエスを裏切ったのです。裏切りは、厳しい迫害や拷問によってもたらされるとは限りません。ごく普通の生活の中で、私たちは日常的に主を裏切り、御心を悲しませていることが多いのです。また私たちは、ごく普通の言葉をもって、日常的に主の御名を辱めているのでないでしょうか。しかし主は、そんな私たちの全てをご存知の上で、尚も私たちを愛してくださり、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成しの祈りをささげてくださり、十字架の上で新たな血を流し続けて下さっています。そして朝毎に私たちに「おはよう」と愛に満ちたお言葉をかけて下さるのです。私たちが主を裏切り、主の御名を辱めた、その同じ言葉を、愛の言葉に変えて返して下さるのです。何という愛でしょうか。信仰とは、この主の愛を「ありがとうございます」と言って、素直に受け取っていくことなのです。主は、今朝も朝霧の立ち込める道の向こうで、私たちを待っておられます。そして爽やかな微笑みをもって「おはよう」と語り掛けてくださっています。私たちも、思い切り明るく、思い切り爽やかに、そして思い切り喜んで、「イエス様、おはようございます」と応えていきましょう。
(3/17 柏史師説教)
聖書箇所 ルカによる福音書24章13節~35節
説教題「イエスは生きておられる」
お話 山本 修一牧師
新聖歌 123番 344番
聖書箇所 マタイによる福音書第27章45節~56節
説教題 「十字架上の死」
お 話 山本修一 牧師
新聖歌 230番 112番
「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ書 23:32-43)
ルカ23章32、33節はイエスの十字架刑の様子が書かれています。
主イエスは、息も絶え絶えに、十字架を背負って「悲しみの道」を、歩かれました。ゴルゴタに着くとすぐに十字架に架けられます。ルカは「一人は右に一人は左に、犯罪人が十字架につけられた」(32-33)と記します。
十字架刑は、目も背けたくなるような悲惨な刑罰でした。そこには想像を絶する肉体的な苦痛があり、人々のあざけりとののしりを受けるという精神的な苦しみがありました。これに対して聖書の描くイエスの十字架刑の様子は、簡潔で抑制的です。
十字架上のイエスの第一声は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない…」でした。十字架上の犯罪人は激痛と呼吸困難のなかから出てくるのは、呪いや怒りの言葉でありますが、主イエスは「彼らの」罪の赦しを求められたのです。イザヤも預言していました。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53:12)。
主イエスの赦しの祈りは、まことに神聖で、高貴で、無限の愛であり、驚くべきことでした。この祈りによってもうひとりの犯罪人が救われ、刑を指揮したローマの百人隊長や部下も救われたのです。
初代教会の役員であったステファノは、民衆に石で撃ち殺される寸前、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で叫んで眠りについたのです。そしてキリスト教の迫害者であったパウロはステファノの祈りに心揺さぶられました。
主イエスは死をかけて、私たちにも、十字架の愛による「赦し」と「とりなしの祈り」を教えられたのです。
(3/10 山本師説教から)
聖書 マタイによる福音書第26章49節、27章29節、28章9節
説教題「三つの挨拶」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 221番 188番
「悲しみの道」(ルカ書 23:26-31)
主イエスが死刑の判決を受け、ビラト官邸からゴルゴタの丘まで、自ら十字架を背負って歩かれたおよそ1キロほどの道を ヴィア・ドロローサといいます。日本語では「悲しみの道」「苦しみの道」と訳されています。わたしたちがこのヴィア・ドロローサについて学んだり、黙想したりする時には、荘重で厳粛な思いに立たされます。
現在のヴィア・ドロローサは、石畳の路地で、狭く、曲がりくねった道です。道の両側には、小さな店(土産物)が並び、熱気と活気に満ち、そしていつも観光客、巡礼者であふれかえっています。歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』によれば、当時、過越祭であり、エルサレムへの世界各地からの巡礼者は270万人に及び、市街は芋を洗うような混雑状態だったとのこと。
イエス様は最後の晩餐の後、一睡することもなく、逮捕、尋問、裁判で引き回され、ムチで打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架の横木を担いで、刑場までふらつきながら歩かれたのです。
クレネ人シモンは、たまたまローマ兵と目が合ったがゆえに、横木を代わって運ぶように命令されました。ローマに支配されていた時代のユダヤ人の労役義務でした。「なぜ、正装して出かけてきた巡礼日に、血だらけの十字架を担がねばならないのか」「なぜ、自分がこのような不運な目にあうのか」と怒りと憤懣に満ちていました。シモンは歩きながらその男の顔をのぞきました。刑場を追い出されてからも、彼のことが気になって遠くから眺めていました。その男が十字架上で、神に祈られる声、「父よ。彼らをお赦しください」と人々を赦す言葉を聞いて、震えるような感動を覚えました。やがてその男が十字架上で死んだときは、彼自身もすっかり変えられていたのです。
(3/3 山本師説教から)