榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/9/29週報メッセージ

年長者の霊性

川﨑 信二 

 更生教会の山口紀子牧師が同教会の月刊誌『ぶどうの樹』で岡本知之著『老いと信仰』(教団出版局/信仰生活入門シリーズ)という書籍を紹介されていました。

その書では、「高齢者」という呼称には人を二分する価値観が潜んでいる。「高齢期」とは「人を養う立場から養ってもらう立場に変わる時」という発想が背後にあり、生産性の有無で人を分ける、という考え方だというのです。

岡本先生は、人間の生産性の本質は、霊性・魂・体の健全さにこそある。聖書は人が「霊・心・体」から構成されると教えているのだ(Ⅰテサロニケ5:23)と指摘しています。

「霊性は人生が順風満帆、向かうところ敵なしといった時に実はもっとも低くなるのです。神など必要ないと高慢になりやすいからです。しかしこの時こそ本当の意味での『牧会』が必要になる時であり、そこに、人生の霊的成熟期を迎えた人々、つまり高齢者の果たす、大切な役割がある。」(『老いと信仰』14頁)というのです。

山口先生は「今まで出来たことが出来なくなる自分を受け入れること、人のお世話になること。それは謙遜でなければできません。謙遜にさせられるのです。切なさや痛みが伴います。」と述べ、「霊的成熟期に霊的生産性、霊的創造性が研ぎ澄まされる。」と記しています。

 私はこれらのことから、人は小さくさせられる時こそ最も神に近づく時だと思わされました。与えられた健康や能力はやがて「神にお返しする」時が来ます。

かつてハンセン病で長島愛生園におられたある女性がこういう句を詠みました。

「目をささげ 手足をささげ クリスマス」

「返す」のも信仰ですが、さらに「ささげる」という捉え方は霊性がなければできません。主の御前に低くなり、感謝のうちに十字架の主を見上げて歩ませて頂きたいものです。

2024/9/22週報メッセージ

内なる人(Ⅱコリント4:16〜18)

川﨑 理子 

パウロは「外なる人」は衰えていくとしても、「落胆しません」と語ります。「外なる人」とは見える部分、姿、衰え、老い等のことです。長生きをすればその分衰え続ける時間も長くなります。パウロの伝道者の生涯は波瀾万丈でした。どこへ行っても「ユダヤ人を迫害していた」「あのパウロ」でした。命も何度も狙われました。そんな生き方をすれば体もボロボロ、精神的にも追い込まれていくでしょう。また、「わたしにはひとつのとげがあり、そのとげを取り除くことはできなかった」と、彼自身、肉体的な弱さを持っていると告白しています。更にこの頃50歳を過ぎ、年齢的にも体力の変化を感じていたのではないでしょうか。

パウロは、この箇所で衰え続けることを悲嘆しているのではありません。むしろ「内なる人」の充実を語ります。それは、「外なる人」つまり「見える体」のことではなく、心の内、信仰的な目に見えない内面のことを指します。「内なる人は日々新たにされています。」との聖句は「信仰は毎日更新されていきます。」と受けとめることができます。日々衰えるのでなく日々更新です。

私は結婚する前の約2ヶ月間、当時伝道師をしていた教会がリフォーム工事のため、教会員の高齢の姉妹のお宅で共に過ごさせていただきました。88歳で1人暮らしをされていた姉妹に短い期間でしたがお世話になりました。

朝の祈祷、朝晩の食事9時半の晩祷他、規則正しい生活をしました。同じプロ野球チームが好きで熱い応援合戦をしたことを思い出します。姉妹の「外なる人は衰えて、私のようにシワシワおばあさんになっても内側は成長させて下さるのは神様だから安心ですよ。朝起きてまだ天国ではないと分かると一瞬がっかりするけどね」と穏やかに語る姿に「内なる人」は日々新たにされる信仰を見ました。

主を信じる者は年を重ねて尚更新続ける。成長して主の為に用いられる。なんと幸いなことでしょう。それは見えないものに目を注ぐ生き方です。私達は外なる人の終りを見つめつつ今を生きるのです。

2024/9/14 週報メッセージ

あっぱれ!「玉鷲」!!

川﨑 信二 

 大相撲秋場所で通算連続出場1631回を果たし、角界1位に躍り出た鉄人「玉鷲(たまわし)」を皆さんご存じでしょうか。11月に40歳になる超ベテランの関取で幕内力士です。過去に幕内最高優勝を2回成し遂げたモンゴル出身の現役力士です(最高位関脇)。なんとなく地味で、人々からの印象が薄い力士でしたが、コツコツ努力し激しい突き押しと素早い動きで上位陣を苦しめ、勝っても負けても真っ向勝負、気持ちの良いお相撲さんであることが少しずつ認知されるようになりました。

インタビュールームでは、いつもニコニコして人当たりがよい。かといって勝負への執着が弱いのではなく、土俵にあがれば闘志むき出し、小細工はせず正々堂々、迷うことのない相撲を取り続けている、それが持ち味で、応援したくなる魅力的な人なのです。

美空ひばりが歌った「柔」という曲に「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと・・・」 という歌詞があります。常にチャレンジャー。謙虚さを失わず、若手に対しても胸を借りるつもりで、全力でぶつかる、その精神が清々しく映ります。

人間はもともと罪人です。聖書にこう書かれています。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(同12:3)。

私たちも思い上がることなくコツコツと歩ませて頂きたい。同時にモンゴルの鷲のごとく、優雅に「翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)、生き生きとした信仰を常に持たせて頂きたいものです。

この世で長らえる限り主に向って歩みましょう。

―敬老の日に寄せて

2024/9/8 週報メッセージ

イエス・キリストによる贖い(あがな  )

川﨑 理子 

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネによる福音書8章11節

 姦淫の女とイエス様との出会いは、同じヨハネによる福音書4章でイエス様が井戸の前でサマリアの女に出会う場面を思い起こさせます。「姦淫した」「五人の夫がいた」…二人の女性には「罪を犯した」という共通点があります。

さらに二人とも「罪を犯した自覚」がありました。姦淫の女は現行犯でしたから当然でしょう。サマリアの女が朝夕の水汲みの仕事を昼間していたのは人目を避けていたからです。その点で彼女にも「罪の自覚」があります。

 悪いことをしたら裁かれるのは当然です。規則を破れば罰金などを支払う義務が生じます。しかし、この二人はイエス様に出会ったのです。イエス様は冒頭のみ言葉によって姦淫の女の罪を赦し、罪から解放されたのです。

イエス様のほうから二人に近づき、言葉をかけられたのです。ここに神様の愛を感じます。

 「ラストマイル」という映画を観ました。大手ショッピングサイトの配送段ボールが爆発する事件。物流を扱った映画で、台風10号や米不足による流通問題と重なり、引き込まれました。お客様に荷物が到達するまでの物流の最後の接点「ラストマイル」では「贖罪(しょくざい)」という言葉が出てきて、「(つぐな)い」の意味で使われていました。ネタバレにな

るので詳しい事は書けませんが、一人一人がその人生で負うものとは何か、を考えさせられました。 

私たちは主イエスの十字架の贖いにより、償いきれない大きな罪を赦していただきました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

主のお言葉に感謝します。

2024/9/1 週報メッセージ

主の山にむかう

川﨑信二 

目をあげて、わたしは山々を仰ぐ…わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから    詩編121:13

富士山の北西、南アルプスには3000m級の山々が肩を並べています。それらを展望できる場所に立つとこれだけ高い山々があるのに「高さ」を感じないのです。有名な富士山は外国人も絶賛するほど美しいのに何故でしょうか。それは富士山の周囲には高い山がなく独立峰として突出していて、ひと際目立つから美しいのでしょう。しかし見方を変えると、一人が突出するのは危険で独裁に繋がります。判事も裁判長も止めることができないような、誰も止めることが出来ない権力は不健全なものです。

 日本アルプスの山々は、峰が尾根で連なっている「岳」なので容姿はそれほど美しくない。皆が皆高いからです。全体的にレベルが高いのです。平均点が95点のような、ずば抜けた人がいない。それは全体として素晴らしく、富士山を凌駕する評価をしてもよいほどです。単に標高で言えば、聖書に出てくるタボル山やヘルモン山より高い山々です。見た目にはそびえ立つ険しさは感じなくても実際に高いのです。人の側からみれば、高い連峰に囲まれた環境の中、ハイレベルの競争でしのぎを削って勝利した者が評価されます。けれど、神からみればそれらは五十歩百歩、どんぐりの背比べに過ぎません。

 標記の御言葉はいわゆる山々のことではなく「主の山」、 つまり礼拝を捧げる場所、神の山に上る巡礼の歌です。「山」は自分自身ではなく、神のもとに行く道です。

人は、ダントツで1番になれば高慢になります。むしろ、罪において突出している方が、神の目から見て「救い甲斐」があるのかもしれません。要するに打ちひしがれて、へこんでいる人の方が目立っていて「迷える子羊」のごとく救いに導かれやすいような気がするのです。凸凹だらけの人は神を求め、己の足りなさを聖霊で満たしてほしいと祈るようになるからです。

懐かしい子ども讃美歌にこんな歌があります♪♪

「山には険しい道があるよ。足もと踏みしめ、さあのぼろう。進め、友よ、進め。真理をもとめて進め!」(1966/小鳥律三原作詞)。 神の示される山、誰でも登れる山に向って進んでゆきたいものです。