榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/5/12 週報メッセージ

「だれでもわたしのもとに来なさい」

マタイ11:28      川﨑 理子

ゴールデンウイークの最中、星野富弘さんの訃報がテレビの報道で流れた。いのち溢れる詩人だった。

私の父は元銀行員。現役時代から詩を書いていた。ジャンルは現代詩らしい。星野さんのことを伝えると「情報を有り難う」と一言。

父は30年前、ホーリネス誌に中山倫子先生の後を引き継ぐ形で暫く詩を書いていた。2011年以降は自分のライフワークとして「震災詩」を書いている。『信徒の友』の教会紹介や、『こころの友』で父に似たような人がいるな(写真で)と思ったら父だった。そこで「震災詩人」との肩書を知った。正直今迄に父が書いていた作品はよく分からなかった(実家に凄い賞の数々が飾ってある)が、震災詩には父の信仰が見えて胸が熱くなった。

星野さんが一番初めに出会った御言葉は「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

私はイエス様の「だれでも」に愛を感じる。星野さんは「私がどんなに絶望しようが、どんなに生きたくないと思おうが、いのちというものが一生懸命生きようとしているのです」と、語っていた。

私の父も神が与えられた命を一生懸命生きている。私は毎日イエスさまのところに行く!そして休む!祈る!

何十年か振りに私はアパ・ルームを使用中。満たされるのは大事だ、と一ヶ月の新生活で改めて知らされた。

2024/5/5 週報メッセージ

「主イエスの憐れみ」 (マタイ26:46)
                        川﨑 信二

 メジャーリーグの名実共にトッププレイヤーで年収も日本人のプロ野球選手とは桁違いの人気アスリート。
彼の信頼していた通訳がお金の管理もしていたようですが違法賭博に手を染めて負債を抱えたため勝手に彼の口座から多額のお金を引き出して窃盗の罪を犯してしまいました。
功名な手口で悪質性もある訳ですからそれなりの償い、刑に服すべきことは当然のことです。地上では許されないことがあります。またそこには依存性の課題もありますし一概には言及できない事柄でもあります。
一方、私はこの件を、主イエスとイスカリオテのユダとの関係に思いを巡らせてみた時に、「罪と赦し」ということを考えさせられました。
イエスは赦した。いつも近くにいた信頼のできるユダ。お金の管理やスケジュールのやりくり、正にマネージャー的な役割を一手に引き受けていた会計係のユダ。
彼は銀貨30枚でイエスを権力者の手に渡し、自分を愛してやまなかった恩師を汚れた金と引き換えに売り飛ばしてしまった。ユダは後悔し、いたたまれない思いが頂点に達し、自ら死を選びます(マタイ27:3)。
彼の死を知った主イエスは、彼の罪と死を引き受けて十字架に向かわれたのではないでしょうか。最後の晩餐でも既にそのお気持ちだったとは思いますが、ユダの死が迷うことなのないご決意となったのでは、と推察します。もちろん、そうでなくても神の計画は成就されますが‥‥。イエスは全ての人を赦し、この私の罪を赦して下さり、全ての人を救う方であることを、改めてこの出来事を通して思わされた次第です。

2024/4/28 週報メッセージ

「見張りの役目」  イザヤ62:6

川﨑 信二

戦争はいったん始めてしまうとこんなふうになる。ロシアとウクライナ、イスラエルと中東情勢。心を痛める報復連鎖のスパイラルだ。

戦争を長引かせる要因の一つに徴兵制がある。イスラエル政府はハマスやイランの攻撃に対応できるよう兵員不足を補うべく徴兵期間の延長を法案化したい考えのようだが、戦争悪化に拍車がかかる事案として懸念される。

国民の間で問題視されているのは徴兵の不平等である。今までもそうだったが、ユダヤ教超正統派の若者は徴兵免除とされてきたが、今後も免除されるかどうか。

これが国民の不満を高めている。イスラエルは予備兵役を入れると国民のほとんどが兵士となる。国民的義務を担おうとせず、仮に徴兵が認められたら、超正統派政党が連立離脱に走る構えだ、という。

 「祈り」に専念する宗教家が、宗教ゆえに免れてきた兵役義務だが、他の若者が戦争へ行くことには賛成しているのに、いざ自分たちにも火の粉が飛んできたら政府に圧力をかけるのだろうか。そもそも、平和を祈るべき彼らが戦争勃発前にそれを止めるのが役目だったのではないか。

ロシア正教の総主教がプーチン大統領の戦略を祝福したことは知られているが、かつての日本基督教団も戦争加担の道を歩んだ過去がある。権力に屈した過去がある。宗教の役割は何だろう。宗教が権力を持つことは恐ろしい事だが有事には国体の過ちを全力で阻止する気概が期待される。戦争よってどれだけの人的財産が奪われることか。始まってからでは遅いと感じる。

 私の伯父は戦前に神学校に入学したが学徒出陣で応召されシベリア抑留で辛酸を嘗める経験をした。戦後3年して復員し、再度神学校で学び牧師となった。学生を送り出す時点で既に勝敗は決まっていた。けれど一度始めた戦争はどちらかが敗北し甚大な損失を被らない限りは終わらない。

預言者の「見張り」の役目とはどんな意味なのだろう。最初は戦争に賛成し、自分たちにも危害が及ぶと分れば反対に転じるのでは遅すぎる。平和のためにキリスト者には何ができるのか。ただただ祈らされるばかりだ。

2024/4/21 週報メッセージ

「主の愛によって遣わされる」
ヨハネ21:15〜23
小見出しに<イエスとペトロ>とあるように、この箇所ではイエスがガッツリとペトロと向き合っている。
15節でイエスの「この人以上にわたしを愛しているか。」との問いにペトロが、「はい、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われた。
二度目は16節で「わたしの羊の世話をしなさい。」と言われた。17節は三度目の同じ問いにペトロはここで「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます。」と答えた。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」。
このやりとりはどういう意味をもつのか。1対1の学びであり愛についての信仰問答とも言える。一度目の問答では顔を下に、二度目は少し上げて、三度目は悲しくなり顔を上げてイエスの顔見たら、そこには問いつめる顔ではなく優しい愛の眼差しがあった。
主イエスはペトロを立ち直させる為に三度も問い、ペトロの口から「あなたは何もかもご存じでよく知っておられます。」との応答を導かれた。
ペトロは「自分は大丈夫!絶対裏切らない」という自信があった。イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。世話をしなさい。」と語られた上に、19節で「わたしに従いなさい」とペトロを召しておられる。「従う」とは、イエスからの「共に来なさい」との招きだ。
イエスは100%神の子であられたが100%人の子でもあられた故に沢山の苦しみと、弟子の裏切りも経験したが、神の独り子として、全ての人の罪を担われた。十字架にかかり陰府にまで降られ三日目に甦がえられた。復活の主はこのわたしに問います。「わたしを愛するか」と。
主の愛に遣われて行きましょう。失敗しても恐れることはありません。主が共に担ってくださいます。
(4/14川﨑理子師説教)

2024/4/14 週報メッセージ

「諦めかけた時に」 (ヨハネ21:1-14)

 エルサレムで復活された主イエスが再び会って下さる。今度はガリラヤで弟子たちにその姿を現された。ガリラヤ湖は一番弟子ペトロが献身する前にこの湖で漁師をしていた、いわば召命の原点の場所でした。「人間を取る漁師にしよう」と主イエスの招きを受けたあの場所、網も大事なものも全て捨てて従った転機の場所でした。伝道者になった元漁師が今また「私は漁に行く」(3)と逆戻りの生き方をしようとするのです 。

漁に出かけた彼らは夜通し漁を試みたが1匹も獲れませんでした。虚しい思いで岸に向かうとイエスが立っておられ「舟の右側に網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみると網が破れそうなほどの大漁となったのです。

誰かが(多分ヨハネ)「主だ」と叫び、裸だったペトロは湖に飛び込んだ、と書かれています。ずぶ濡れのペトロに岸にて暖をとらせ、炭火でこんがり焼けた魚とパンを用意して下さる主。イエスとの食卓は最後の晩餐を想起させます。エマオ途上の2人の弟子の目が開かれたのも食卓でした。聖餐式にてパンとぶどう液を頂く時に、イエスがこの私の罪のために十字架で肉を裂き、血を流されたことに心を留めます。この箇所は召命の原点であり罪の原点に立ち返るための教えです。

ペトロは「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です」と豪語したが、結局主を見捨てて逃げてしまった。イエスから離れようと伝道者を辞めて故郷ガリラヤに戻ろうとする者にも声をかけてくださる主イエス。

私たちが諦めても、主は諦めない。何度も声をかけて下さるのです。再献身。傲慢な私に、自分の罪に気づかせてもう一度弟子にして下さる。その主の呼びかけに謙虚に従ってゆきたいものです。

(4/7 川﨑信二師説教)

2024/4/7  週報メッセージ

説教断片  「イエスは生きておられる」 (ルカ24:13-35)

 イースターおめでとうございます。本日はルカ24章の、「エマオへの道」から学びます。

 第一に、二人の弟子たちは、「目が遮られて」(16)、その旅人が何者かがわかりませんでした。彼らは、失意と悲しみにうちひしがれていました。彼らの目は、「偏見、思い込み、誤解」のため、正しいメシア観、御子イエスを理解することができなかったのです。やがて旅人の聖書の解き明かしを聞くうちに、「心が燃える」体験をしたり、聖餐を思わせるようなパンを裂く行為を見て、霊的な「目が開かれて」復活のキリストだとわかったのです。

だれもが神の言葉に触れ、心が燃えるような経験をするわけではありませんが、教会に来るとなんだか心が安らぐ、説教を聞いて心が迫られる、何らかの感動を覚える、…こういう一つひとつの小さな経験を大切にしていきたい。聖書を慕うところにだけ、御霊は働かれるのです。

  第二に、「エマオへ行く道は」、失意と落胆の道であり、命から死へ(滅び)向かう道でありました。それに対して 「エルサレムに引き返す道」(33)は、真の生き方に変えられる希望と夢の道であり、死から命へと向かう道でありました。夢なく、希望なくエマオへの道を歩く、これがわたしたちの人生の縮図でした。

 第三に、この物語では、「イエスは生きておられる」(23)が中心の聖句です。これはルカ自身の心からなる信仰告白であり、証しでありました。ルカは何としてでも、この福音書の読者に「主は、今、現実に、生きておられる」ことを強調しているのです。確かに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13:8)。

私たちも日々の信仰生活の中で、「イエスは生きておられる」ことの小さな事実・しるしを探し求めていきましょう。 

(3/31 山本修一牧師説教)