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2023/9/17  週報メッセージ

「放蕩息子を待つ父の愛」 (ルカ 15:11-32) 

     (神の愛⑤)

放蕩息子の物語は、だれもが一度は感動したことと思います。このお話は、「たとえ話の中の真珠」「福音の中の福音」とも呼ばれる有名な箇所です。

このたとえ話は、何を私たちに伝えているのでしょうか。第一に放蕩息子の帰還・悔い改め、第二に父の愛と赦し、第三に、義に生きる兄の不平と不満などのテーマが考えられます。

ところでルカ15章には三つのたとえ話があります。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、③「放蕩息子」のたとえです。この三つに共通する主題は「失われたもの」「回心」「喜び」です。そして迷った羊が見つかり、失った銀貨が戻り、放蕩息子が帰ったときの大きな喜びで結んでいます。

③では父親は財産を与えたばかりか、それを遊びで使い果たして帰ってきた弟息子を喜び、温かく迎え入れたのです。しかし③の兄は、弟の帰還を喜べず、家に入ることを拒んだのです。ここに兄の深刻な問題がありました。

兄は、父に多年忠実に仕え、言いつけに背くこともなかったのですが、その心は不平、不満がたまっていました。弟を赦せず、弟を無条件に赦す父をも受け入れられませんでした。兄は、父と一緒に住んでいても、弟以上に父の愛から遠かったのです。

私たちの中にも、神と共に歩むことをあかししながら、喜びも感謝も知らず、キリストの愛から離れている人はいないでしょうか。私たちは、今一度、十字架のイエスの元に帰り、罪の告白、人(家族、友人)との和解、ねたみと憎悪の除去、主と共にあることの恵みと豊かさの再発見を求めていきましょう。それが私たちのなすべき悔い改めのわざに他なりません。

(9/10 山本師説教)

2023/9/10  週報メッセージ

「善きサマリア人のたとえ」 (ルカ 10:25-37) 

        (神の愛④)

「善きサマリア人の物語」は、とても有名で、印象的で、感動的な聖書のお話です。

律法の専門家から「隣人とはだれか」と問われて、イエスはサマリア人のお話を展開します。

物語に登場する通行人が、祭司とレビ人、ユダヤ人の嫌うサマリア人の三人でした。強盗に襲われたユダヤ人の旅人が横たわっています。

祭司、レビ人は、瀕死の旅人の側に近づかず、向こう側を通って(避けて)過ぎ去りました。この「向こう側」との言葉に注目しましょう。「向こう側」とは、単に「道のあちら側のことではありません。それは「相手の立場に立つことなく、自分の立場に立つこと、すなわち自分の可能なことだけ、ただ自分のできる範囲だけで、人を愛するという立場に立つこと」です。彼らは旅人の痛み、苦しみを慮(おもんぱか)るのではなく、自分の立場ばかりを考えていました。やれ祭司服が汚れる、やれ仕事の帰りで疲れている。もし死んでいたら、一週間のきよめの儀式を行わなければならない、ぐずぐずしていたら別の強盗に襲われる可能性がある、などなどです。

このサマリア人の愛・親切は、国、宗教、敵・味方,親疎などすべての境界線・壁を超えるものでした。その愛の中心には、「憐れに思う心」(33)すなわち「はらわたを突き動かされる」「心を揺り動かされる」慈愛がありました。

愛とは、「だれが隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(37)というイエスの言葉に従うのが愛です。すなわち私たちが愛の行為をすれば、その人は隣人となり、なんの行為をしなければ隣人にならないのです。主イエスは宗教的指導者に対して、「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、実行しようとはしない」「自分の可能なことだけをし、自分のできる範囲のことをしているだけでは、隣人を愛したことにはならない」と語るのです。厳しいイエスのお言葉ですが、私たちに向けられたメッセージでもあります。

9/3 山本師説教)

2023/9/3 週報メッセージ

「あなたを罪に定めない」 (ヨハネ 8:1-11) 

      (神の愛③)山本修一

ファリサイ派の人たちは、現行犯で逮捕された姦淫の女を、イエスの前に連れてきました。イエスを試すためでした。

もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言われたら、イエスはモーセの律法にそむく者と非難したことでしょう。もしイエスが「この女を石で打ちなさい」と言われたら、日頃のイエスの愛の言動と矛盾すると非難したことでしょう。この女のいのちを救うにしても、女の処刑を肯定するにしても、いずれも窮地に立たされるところでしたが、主は威厳と知恵を持って勝利されました。『罪なき者が女を打て』。その言葉が宗教的指導者たちの心に突き刺さったとき、彼らは握りしめていた石を捨ててその場を去りました。

この印象的な物語は私たちに、罪と赦し、律法と裁き、愛と死など多くの真理を伝えるものですが、なお最後に、「自己吟味」を学びます。私たちは、他人の過ち、欠点、罪はよく見えても、自分自身のものはよく見えません。マタイ書でも人間の盲点(マタイ7:1-5)として取り上げられているところです。しかも自分の罪(欠点、弱点)は棚上げにして、他人の罪を責め、自分の義(正しさ)を押し通そうとする傾向があります。イエスの『罪なき者が打て』とのみ言葉が、彼らの良心を呼び覚まし、自分の罪と欠点に向き合うように強いたのです。

信仰の世界では聖書に照らしての自己吟味、自己点検、自己検査がとても大切です。私たち自身が罪人であること(ローマ3:23)、たえず神の恵みと憐れみが必要であることを自覚し、主の赦しを求めることに熱心でありたいものです(1ヨハネ1:9)。

         (8/27 代読 説教)

2023/8/20 週報メッセージ

「愛がなければ」(神の愛②) 

                    (Ⅰコリント書 12:31~13:13)

 Ⅰコリント13章は新約聖書全体を通して最もすばらしい「愛の章」「愛の賛歌」といわれるところです。コリント教会はそれほどすばらしい、理想的な教会だったのでしょうか。

パウロはコリントで長く滞在し、生活を共にしたのですが、伝道は困難を極めました。「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」(カルヴァン)、欲望や自己中心が渦巻いているような教会でした。不一致、分裂、争い、訴訟、性的不品行、偶像への供え物、などの問題が絶えませんでした。日本の最悪といわれる教会よりひどかったかもしれません。信徒にはねたみがあり、高ぶりがあり、いらだちがあり、恨みもあるような状況だったのです。パウロは、愛の賛歌を格調高く歌い上げたものではなく、信徒を叱責し、戒め、勧告をしたものであります。

15の愛の定義(4)は、具体的な愛を提示するものです。「愛」を「神」に換えて読むと、改めて神の愛を理解できます。逆に「愛」を「私」に言い換えて読むことを勧めるのが作家の三浦綾子さんです。不思議にも自分の弱い、みじめな姿がよく見えてくるようになります。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13)。コリント教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになっていました。現代の教会にも通じることです。

パウロは信仰と希望は愛の中に含まれている(7)というのです。私たちは主イエスの十字架を通して、愛を知りました。その神の愛に応えるのが信仰であり、この救いに希望を置くのがクリスチャンです。

私たちは神の愛をとことん知り、神を愛する者にとことん変えられて、始めて「生きる者」になるのです。私たちは この「愛がなければ」生きることは出来ないのです。

8/13 山本師 説教)

2023/8/13  週報メッセージ

「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21) 

ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。

とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。

エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。

パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。

私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。

8/6 山本師 説教)