榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/3/17 週報メッセージ

「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ書 23:32-43)

ルカ23章32、33節はイエスの十字架刑の様子が書かれています。

主イエスは、息も絶え絶えに、十字架を背負って「悲しみの道」を、歩かれました。ゴルゴタに着くとすぐに十字架に架けられます。ルカは「一人は右に一人は左に、犯罪人が十字架につけられた」(32-33)と記します。

十字架刑は、目も背けたくなるような悲惨な刑罰でした。そこには想像を絶する肉体的な苦痛があり、人々のあざけりとののしりを受けるという精神的な苦しみがありました。これに対して聖書の描くイエスの十字架刑の様子は、簡潔で抑制的です。

十字架上のイエスの第一声は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない…」でした。十字架上の犯罪人は激痛と呼吸困難のなかから出てくるのは、呪いや怒りの言葉でありますが、主イエスは「彼らの」罪の赦しを求められたのです。イザヤも預言していました。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53:12)。

主イエスの赦しの祈りは、まことに神聖で、高貴で、無限の愛であり、驚くべきことでした。この祈りによってもうひとりの犯罪人が救われ、刑を指揮したローマの百人隊長や部下も救われたのです。

初代教会の役員であったステファノは、民衆に石で撃ち殺される寸前、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で叫んで眠りについたのです。そしてキリスト教の迫害者であったパウロはステファノの祈りに心揺さぶられました。

  主イエスは死をかけて、私たちにも、十字架の愛による「赦し」と「とりなしの祈り」を教えられたのです。

3/10 山本師説教から)

2024/3/10 週報メッセージ

「悲しみの道」(ルカ書 23:26-31)

主イエスが死刑の判決を受け、ビラト官邸からゴルゴタの丘まで、自ら十字架を背負って歩かれたおよそ1キロほどの道を ヴィア・ドロローサといいます。日本語では「悲しみの道」「苦しみの道」と訳されています。わたしたちがこのヴィア・ドロローサについて学んだり、黙想したりする時には、荘重で厳粛な思いに立たされます。

現在のヴィア・ドロローサは、石畳の路地で、狭く、曲がりくねった道です。道の両側には、小さな店(土産物)が並び、熱気と活気に満ち、そしていつも観光客、巡礼者であふれかえっています。歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』によれば、当時、過越祭であり、エルサレムへの世界各地からの巡礼者は270万人に及び、市街は芋を洗うような混雑状態だったとのこと。

イエス様は最後の晩餐の後、一睡することもなく、逮捕、尋問、裁判で引き回され、ムチで打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架の横木を担いで、刑場までふらつきながら歩かれたのです。

クレネ人シモンは、たまたまローマ兵と目が合ったがゆえに、横木を代わって運ぶように命令されました。ローマに支配されていた時代のユダヤ人の労役義務でした。「なぜ、正装して出かけてきた巡礼日に、血だらけの十字架を担がねばならないのか」「なぜ、自分がこのような不運な目にあうのか」と怒りと憤懣に満ちていました。シモンは歩きながらその男の顔をのぞきました。刑場を追い出されてからも、彼のことが気になって遠くから眺めていました。その男が十字架上で、神に祈られる声、「父よ。彼らをお赦しください」と人々を赦す言葉を聞いて、震えるような感動を覚えました。やがてその男が十字架上で死んだときは、彼自身もすっかり変えられていたのです。

3/3 山本師説教から)

2024/3/3  週報メッセージ

「完全な成長に向かって」(ヤコブ書 1:1-8、12)

キリストを信じて救われた者が、なぜそれ以上に成長することが必要なのでしょうか。それは、救われたということは、神さまとの関係を回復したことであり、天国に向かって第一歩を進めたに過ぎないのです。私たちの魂は、天国に向かって成長していかなければならないからです。

私たちはかつて洗礼を受けました。キリストの福音を信じて救いを得、霊的な幼子として誕生しました。霊的な幼子は、純粋な、みことばの乳を飲んで育ちます。私たちキリスト者も、み言葉(聖書)をたくさん読み、その深い意味を理解し、自分の栄養にしていく必要があります。

私たちが成長していくうえで、さまざまな「試練」「訓練」がやってきます。①ヤコブ書は「試練」を、むしろ「喜べ」()と前向き、ブラス思考にとらえるように勧めます。②また試練から「忍耐」()が生じます。聖書の忍耐には「苦しみに耐える」こと以上の深い意味があるのです。それは「神のご計画を待つ心、ゆだねる心、信頼する心」が養われることです。③さらに「試練」を耐え忍ぶ人は、「命の冠」をいただく」(12)と約束されています。

私たちクリスチャンの成長の最終ゴールは「キリストに似た者」となることです。創世記3章は、アダムの罪により、私たちの、神のかたちが歪んでしまったというのです。しかしパウロは、私たちは再び「主と同じ姿に造り変えられていく」(Ⅱコリント3:18)と明言するのです。

今一度、私たちは着実に霊的に成長しているか顧みてみましょう。私たちは、神の子として、恵みから恵みへ、信仰から信仰へ、昨日より今日、今日より明日、日ごとに新しくされ、変えられ、成長しているでしょうか。成長させてくださるのは神さまです。その神さまは、私たちが幼子から成人(大人)へと成長することをどんなに期待しておられるでしょうか。 (2/25山本師説教

2024/2/24  週報メッセージ

「被告席に立つ神」(マタイ書 26:57-68)

 C.S.ルイスは「被告席に立つ神」というエッセー集の中でこのように述べています。「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもあるし、神様を信じることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方、その信じ方である。現代人は、まるで神様を、被告席に立たせているかのように取り扱っている。神様を被告席に立たせておいて、その神様に様々な質問をして答えさせている。これはどういうことなんですか?なぜこうなのですか?あなたは神として、一体何をしているのですか?それらの答えに、自分が納得している限りにおいて神様を信じている。しかし、それは信仰ではない。信仰とは、自分は被告席に立ち、神様を裁判官として、神様の問い掛けに答えていくことである。」まさにルイスの言う通りですが、人類はその初めから、神様を被告席に立たせて、神様に文句を言い、神様を責めています。

最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださったあの女が、木から取って与えたので食べました」と言って神を責めています。今朝の箇所では大祭司たちは、神の子主イエスを、実際に被告席に立たせて裁いています。大祭司たちは「今の生き方を変えなさい」と、悔い改めを迫る主イエスが邪魔だったのです。そんな彼らに対して主イエスは、たった一言語られました。「あなた方の神であるこの私が、今、ここに、こうして、被告席に立たされ、裁かれ、こぶしで叩かれ、唾をかけられている。それは、あなた方を救うためなのだ。あなた方が、その生き方を変えて、父なる神の愛の中に生きるようになるために、私はここに、こうして被告席に立っているのだ。」主イエスは、ただ一言話された後は、ただ黙々として、十字架へ道を歩まれました。受難節の時、主イエスのこの御心を、この愛を、この御苦しみを、心に刻みつつ歩んで行きたいと思います。(2/18 柏明史師説教)

2024/2/18 週報メッセージ

「成長しなさい」 (成長シリーズ①

(Ⅱペトロ書3:14-18)

日から説教のテーマが「イエス・キリストを知る」から「成長」に変わります。

思えばペトロこそ、主イエスにあって著しく成長した人物の一人でした。漁師の出身であり、粗野で、向こう見ずで、口より行動の方が早いタイプの人でした。そのペトロはさまざまな試練や失敗を重ね、とくに聖霊を受けてから、大きく成長し愛の人に変わったのです。 晩年はキリスト教徒が迫害されていたローマに乗り込みますが、皇帝ネロに捕らえられ、逆さ磔になって殉教したと伝説では伝えられています。

このペトロが晩年に2通の手紙を書きます。この手紙Ⅱを閉じるにあたって、遺言のように「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18)と語ります。ここでの成長とは、霊的成長、私たちの魂の成長のことをいいます。キリスト者は、救われればそれで終わりではなく、その後、霊的に成長していく存在です。

霊的に成長することは、第一はすべて「神の恵み」によるものであり、決して私たちの努力や功績によるものではありません。第二は「神の業」であります。私たちが信仰によって救われたのも神の御業によるものでした。第三は「イエス・キリストの知識」において成長するのです。イエス・キリストを知れば知るほど、イエス・キリストとの関係は親密になり、霊的に成長するのです。

  最後に、霊的な成長は、神さまの命令です。「成長しなさい」とは、時々ではなく、思い立ったときでもなく、「成長し続けなさい」(現在進行形)の意味なのです。ある教師が言います。「信仰の中断あるいは停滞は、信仰の後退ですよ。」

(2/11 山本師説教)