聖書箇所 ヨハネによる福音書第1章1節~5節
説教題「闇に輝くキリストの光」
お話 山本 修一 牧師
新聖歌 79番 80番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第1章1節~5節
説教題「闇に輝くキリストの光」
お話 山本 修一 牧師
新聖歌 79番 80番
「慰めに満ちた天国の礼拝」 (ヨハネ黙7:9-17)
「礼拝」は、聖書全体のテーマの一つです。創造者であり、救い主であり、王である神さまに、礼拝を捧げることは、地上においても天上においても、私たちの最大の務めです。では正しい礼拝とは何か、正しい礼拝の姿勢・態度とは何かを、聖書に基づいて考えていくことは、とても大切なことです。
「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異で難解な書物ですが、将来起こる最終の出来事を、そして天上ではどのような礼拝が行われているかを教えてくれる貴重な書物です。
1世紀末、初代教会の人々は皇帝礼拝が命じられ、圧政と迫害の中にあって「涙と苦しみの礼拝」を捧げていました。パトモス島に流刑となったヨハネは、「ある主の日」に聖霊に導かれ、天上での幻の出来事を経験します。ヨハネは黙示録に著し、殉教者たちが、天上ではどんなに慰められ、平和と歓喜に満ちた礼拝を捧げている様子を描いています。これを聞いた地上の教会の人々は、大いに励まされたようです
本日の聖書箇所には、天上での礼拝について三つのことが書かれています。第一に神と小羊を中心として、「救い」が高らかに賛美されていることと。第二に礼拝者は「白い衣」(義、きよめ)を着、「ナツメヤシの枝」(勝利と賛美)をもって礼拝を捧げていること。第三に子羊(キリスト)が牧者となって、礼拝者を「命の水の泉」(聖霊)に導かれること…です。
天上の礼拝は、地上の礼拝とはまるで異なっているようですが、あるべき礼拝、将来の希望を伝えるものです。
私たちは、天国の礼拝を目指すこの地上の聖日礼拝で、砕かれた悔いた心をささげて、神の小羊イエス・キリストを礼拝し、いのちの水に満たされようではありませんか。 (11/26 山本修一師説教)
「弱さの中の強さ」 (Ⅱコリント12:1-10)
ある時パウロは、想像を絶するような神秘的な聖霊体験をしました。それがあまりにも素晴らしかったので、そのことの故に思い上がらないようにと、一つのとげがパウロに与えられました。そのとげは彼の宣教活動を妨げるものでした。パウロはそのとげを取り去ってくださいと主に何度も祈りましたが、主はパウロに応えて言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」文語訳聖書では「我が恵み、汝に足れり」と訳されています。その「とげ」は、パウロにとってはまさに「弱さ」でした。しかし、その「弱さ」こそが、主の「恵み」を働かせる「場」であったのです。ですからパウロはその弱さを誇ると言っているのです。自分が強いと思っている時、私たちは自分の力に頼っています。その時キリストの恵みを見ていません。キリストの恵みに信頼していません。主の恵みは自分の弱さを知った時に、初めて本当に見えてくるのです。弱さの中で発揮されるのです。十字架の主イエスのお姿。それは弱さと無力さの極みのお姿です。しかし主の恵みは、その十字架において最も豊かに発揮されたのです。主はその十字架の上から「我が恵み、汝に足れり」と言っておられるのです。十字架の恵みとは「もうこれ以上、私はあなたに与えることができない」と言われる程の究極の恵みです。「我が恵み汝に足れり。」この点において、私たちには不足も不平もない筈です。これこそが、本当の強さです。「主よ、あなたの恵みは、今、私に十分です。」「主よ、あなたの赦し、あなたの愛、あなたの恵みは、今、私に十分です。」この言葉は、私たちが自分自身の弱さに立ったときに初めて言える言葉です。逆境の中でも、行き詰まりの中でも、主の十字架の恵みは私に十分なのです。私たちは、自らの弱さを自覚した時に、自分の強さではなく、主イエスの強さに依りすがる者とされます。それこそが本当の強さなのです。
(11/19 柏明史師説教)
聖書箇所 ルカによる福音書第1章26節~38節
説教題「お言葉通りこの身に」
お話 山本修一牧師
新聖歌 70番 84番
聖書箇所 ルカによる福音書第1章26節~38節
説教題 「お言葉通りこの身に」
お話 山本修一牧師
新聖歌 70番 84番
聖書箇所 ヨハネの黙示録 第7章9節~17節
説教題 「慰めに満ちた天国の礼拝」
お話 山本修一 牧師
新聖歌 143番 475番
「招きとしての礼拝」(礼拝③)
(ルカ14:15-24)
召天者記念礼拝が終わり、再び、もう少し礼拝について学んでいきます。今回は招きとしての礼拝です。
もうすぐクリスマスの季節に入ります。思い返していただきたいのですが、幼子イエスの誕生に誰が招かれたでしょうか。近くから羊飼いたち、遠くの東方の国から幾人かの博士たち、…だけでした。彼らは幼子を礼拝するためだけに、地図もなく、闇夜に星に導かれて、招かれたのです。礼拝とはなによりも神さまに招かれることを示しています。
主イエスはファリサイ人らの前で「大宴会のたとえ」(15)を話されます。そのたとえでは、神の宴会の招待を受けた人々が順序通りに招待されることをあらわしています。しかし最初に招待されていた人たちは、些細でとるに足りない言い訳をしながら拒否します。彼らは神の律法を守ることに熱心で、真面目で、忠実でしたが、本心は「神の国」より「自分の地位、名誉、プライド」の方を優先しました。ですから「神の招き」(晩餐、宴会)よりも、「この世の生活」の方を大切にしたのです。
この物語は今日の私たちに向けられた言葉です。聖日ごとの礼拝は、じつは「神の国の食事」「神の晩餐会」のひな形であります。かつては、私たちは神さまから遠い「罪人」であり、選ばれていない「異邦人」でした。今や聖日ごとに、私たち一人一人は主の招きを受けています。その主の招きに対して、素直に、進んで、喜んで応答することが礼拝です。そのつもりでいるはずですが、いつのまにか些細な日常的なことで、私事都合で、家事都合で、自己都合で、神さまの招きをお断りしていることはないでしょうか。そして招待されるにふさわしい「礼服」(マタイ22:11)を着て参加しているでしょうか。
(11/12 山本修一師説教)
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二第12章1節~10節
説教題「弱さの中の強さ」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 303番 505番
聖書箇所 ルカによる福音書第14章15節から24節
説教題 「招きとしての礼拝」
お話 山本修一 牧師
新聖歌 185番 298番
「愛と真理をもって礼拝する」 (礼拝②)
(ヨハネ4:16-24)
主イエスは、サマリアの女に「まことの礼拝」について切々と語られました。イエスの言葉はこれまでの礼拝の概念をまったく変えるものでした。私たちの時代においては、さほど感じられないのですが、旧約時代に生きてきた人にとっては、礼拝の考え、あり方、姿勢を驚くばかりに転換するものでした。その後のキリスト教の礼拝は、①いつでも、どこでも「礼拝」できる。神殿でなくても礼拝できる。②聖霊によって、イエスを知り、父なる神をあがめる。③旧約のいけにえ、儀式をしなくても、ただイエスの贖いを通して、聖なる神に近づくことができる…ものとなりました。
主イエスはサマリアの女に「本物の礼拝」とは何か教えました。最初は心を閉ざしていたのですが、次第に心が開かれ、イエスさまが預言者(19)、続いて救い主であることに気づいたのです。「あなたと話しているこのわたしが、それ(キリスト)である」(26)。 この時、この女性は変わりました。
まず救い主(キリスト)との出会いが礼拝の原点です。私たちも礼拝のたびごとに、主イエス・キリストとの出会い、み言葉との出会い、み言葉の悟りと迫り、を求めていかなければなりません。
次に「霊と真理をもって」とは何かを学びましょう。「霊」とは、「聖霊」のことです。聖霊なくして、イエスを知り、従うことができないのです。ですから霊によって礼拝するには、「悔いて、開かれた、きよい心」が必要となるのです。「真理」とはイエスまたはイエスのみ言葉。イエスご自身、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「父なる神さまに向って、聖霊が臨在する中で、イエス・キリストの御名によってささげる」…これが三位一体の神への礼拝となるのです。
(10/29 山本修一師説教)