写真提供:KKさんペンテコステ礼拝そして創立89周年記念礼拝
写真提供:KKさん
写真提供:KKさん ペンテコステを前にして
朝位 真士
「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1・14)
来週5月27日はペンテコステ礼拝です。初代教会の人々は、エルサレムの2階座敷で熱心に祈っていました。すると10日後、聖霊降臨があり、教会が誕生しました。ペンテコステの出来事は祈りによって行われました。ここで祈りとは何かをもう一度考えてみましょう。
(1)祈りとは、神と人間との対話である。
(2)祈りとは、秘技に属するもの。旧新約聖書には約束とか契約とかいう語が276回以上記されています。神と人間との対話といってもそれは互角の両者の会話とはいえません。超越者、絶対者なる神と、罪人である人間との対話は、普通の理論で語ることは不可能です。いわば、これは秘義に属することです。この不可能と見える祈りを可能にする背景は、聖霊のお働きであり、神の一方的愛に他なりません。
(3)祈りとは、祈ることである。祈りとは何か。それは祈ることです。静止して、論理や定義として把握される祈りは、ついに祈りとはなりません。祈りは、神に対する最大の行為です。祈りながら祈りを知り、聴従することによって、それが何であるか知るほかはないのです。
あのペンテコステ前夜の祈りは、教会誕生の契機となりました。ともに集まって協力の祈りをすると、祈りの真価が発揮されます。来週の5月27日はペンテコステ礼拝です。私共は今一度、初代教会の力の源泉である聖霊の力を頂くために密室で祈り、協同で祈り、桜ヶ丘教会の霊的刷新のために一人一人の信仰が力強く前進し、一人でも多くの人々が教会に導かれ救われることを祈り待ち望みたいと思います。
5月の連休は天候が不安定な中で過ぎていきました。 ペンテコステを前にして
朝位 真士
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。……すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2章1~4節)
今月27日(日)はペンテコステ礼拝です。2千年前、エルサレムで120人の人々が10日間、熱心に祈っていると聖霊が降り、一人一人が聖霊に満たされて教会が誕生しました。ここで、教会の特質についてもう一度考えてみましょう。①教会のからだである教会。キリストは教会のかしらであり、教会はすべてのものが満たされているところです。(A)一つの生命共同体。(B)一つの愛の共同体。②キリストの花嫁である教会。
また教会にはいろいろな働きがあります。①世界宣教。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)教会はキリストの福音の証人です。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)②信仰教育。教会の教育もまた大きな使命です。神への信仰と聖霊の真理をこの世のあらゆる反神的な思想、生活、習慣から守り、また神の恵みを代々に伝えるためにこの教育はなされます。③社会福祉。この地上に置かれています。教会がキリストの愛のうちにこの世との深いかかわりをもち、与えられた神の祝福を共に分かち合うためです。
ペンテコステを前にして、もう一度教会の特質を考えてみましょう。
伝道とは何か
朝位 真士
2011年度宣教方策会議が3月5~6日、教団鳥居坂教会を会場に
「伝道と伝道協力、共通理解と協働を求めて」の主題のもとに開催され
た。東京神学大学教授の神代先生が講演されて、「伝道」と「宣教」の
言葉の定義から始まり、「伝道」とは「イエス・キリストの十字架と復
活を通して罪からの救いの知らせである福音を宣べ伝えること」であり
「宣教」は「伝道、および福音によって生きる者の『愛のわざ』を通し
てなされる『証し』から成る、福音を宣べ伝える働き」であるとした。
伝道と宣教は対立するものではなく、伝道に愛の業を加えたより広い概
念が宣教であると定義した。
続いて、「なぜ宣教しなければならないのか」という問いに対して、
福音の普遍性があげられた。「福音は天地万物の造り主である唯一の神
に由来しており、全ての人のための救いの知らせである。この伝道は、
神の働きと導きのもと、教会が福音を宣べ伝えるために建てられている
ことによって可能となる」と語られた。また福音は、信仰と共に悔い改
めを引き起こすものであると指摘した。さらには、福音の普遍性は「い
つでも、どこでも、誰にでも」当てはまるということであるから、信仰
の正当性を意味し、それゆえに教会の公同性に結びつくのであると説明
した。
私共は主の証し人として、「時が良くても悪くても御言を宣べ伝え」
なくてはならない。
わたしの民が大勢いる
朝位 真士
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」これはコリント伝道に従
事している時、主がパウロに幻の中で語った言葉でした(使徒18章9
節)。恐れずにはおられない現状を見せたうえで「わたしがあなたと共
にいる」と言葉を重ねたのです(18章10節)。恐れず、語り続け、
黙っていない時、主が共にいることを実感させられるのでしょう。そし
て逆も真なりで、主が共にいて下さるゆえに、恐れず語り続け、黙って
いない地平へと出られるのしょう。(『それゆけ伝道』より引用)
先日、イースター礼拝でI姉が受洗されました。I姉との関係は、約
20年前にさかのぼります。私共が以前の教会でI姉の妹夫妻とお交わ
りがあり、I姉の御母堂の葬儀をさせていただきました。それ以来、九
州で妹夫妻のお祈りがずっと続けられました。神の導きでI姉と再会し
て以来、今日まで忠実に教会生活を続けられ、礼拝や特別集会に出席さ
れていました。さる3月20日の西東京教区全体研修会でのO牧師の講
演を聞き、彼が牧師をしながら弱者の方々に対する愛の奉仕に命を賭け
ておられる姿に感動されて、受洗の決意をされました。受洗はクリスチ
ャンの卒業式ではなく入学式です。こらから私共と一緒に主のことを学
ばれることをお祈りしたいと思います。
主の御名を賛美します。ハレルヤ!!
写真:K/Kさん提供