榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/5/26 週報メッセージ

「わたしが選んだ器である」 (使徒9:15)

川﨑 理子 

5月は父、息子、姪っ子そして自分の誕生日に加え、受洗記念日がある月で、「おめでとう」「ありがとう」とのメッセージを沢山受け取り、また伝える月だった。

上記の御言葉は35年前に受洗後の学び会で、開かれた箇所である。それこそ沢山の方々から「おめでとう」と受洗の祝福を頂いたのだが、聖書の学びをしてないのは不味いのではと思い、牧師に相談すると、「祈祷会へ来ているから大丈夫。でも、学んでみたい箇所があるなら」と言われ、私は「使徒行伝を学びたい」と伝えた。

新約聖書の「〇〇への手紙」の殆どはキリスト者を迫害していたパウロが著者だったので、パウロを知りたいと思った。自分で読んで気になる箇所を牧師に質問するという学びが始まった。9回目の学びで「なぜアナニアに幻の中で主はサウロのところへ行け、と言われたのかな」と牧師から質問されたので、「ダマスコにアナニアがいたから。」(使徒9:10)と答えた。「そうですね。もう一度理子さん、15節を読んで下さい」「すると、主は言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

「この言葉でアナニアは兄弟サウルの為に主がわたしをお遣わしになったと知ったんだね。」と牧師。今思い返してみると普通の会話だ。しかし、質問されたのはあとにも先にもこの一回だけだった。この学びの最後に、「行け。わたしが選んだ器だ」に促されて受洗し牧師になり、今日在るを得ている。今鮮明にあの時の事が思い出されるのは、私を桜ヶ丘教会へ主がお遣わしくださったからだ。

2024/5/19 週報メッセージ

「一人ひとり」そして「一同」と共に

川﨑 信二 

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。Ⅱコリント13:13

パウロが書いた手紙の最後にある祈りの言葉です。礼拝においては頌栄の後に祈られる「祝福の祈り」、また「派遣の祈り」とも言われています。これは多くの教会で用いられている「使徒的祝祷」と呼ばれるもので、「三位一体の神からの祝福」を祈る形がとられています。

パウロはどの手紙でも相手の祝福を祈って手紙を書き、また相手の祝福を願って祝祷で手紙を閉じています。問題の多いコリント教会の兄姉たちが生活の中に三位一体の神の祝福を意識しながら歩むようにとの思いが込められています。父・子・聖霊はどの教会の祝祷も同じです。

「あなたがた」と「一同」という言葉。あなたがたは「一人ひとり」という意味です。礼拝の祝祷には牧師によって様々な言い方がありますが、聖書ではほとんどの翻訳が「あなたがた一同」となっています。文語訳では「なんぢら凡(すべ)ての者(もの)と偕(とも)にあらんことを。」、前田護郎訳では「皆さんとともにありますように。」となっています。「皆さん」だけではどうしても、皆「ひっくるめて」とか「一緒くたに」という、一括りの響きがあります。

「あなたがた」には、お一人一人のお顔を思い浮かべつつ、お一人一人を大切にする思いが込められています。また「一同」には教会が「ばらばら」にならないで一つになって歩むようにとの思いが込められているのではないでしょうか。

まさに今の状況。全員が礼拝堂に一同で会することのできない状況下にあって、場所は違えど、ばらばらではなく心を合わせる。一つの信仰が試されているような気がします。

私たちは聖日ごとに聖霊の息を吹きかけられて(ヨハネ20:22)それぞれの持ち場へと遣わされます。目に見えない聖霊の交わりの中に身を置くこと、それが最も大切なことであると改めて確認させて頂きたいと思います。

2024/5/12 週報メッセージ

「だれでもわたしのもとに来なさい」

マタイ11:28      川﨑 理子

ゴールデンウイークの最中、星野富弘さんの訃報がテレビの報道で流れた。いのち溢れる詩人だった。

私の父は元銀行員。現役時代から詩を書いていた。ジャンルは現代詩らしい。星野さんのことを伝えると「情報を有り難う」と一言。

父は30年前、ホーリネス誌に中山倫子先生の後を引き継ぐ形で暫く詩を書いていた。2011年以降は自分のライフワークとして「震災詩」を書いている。『信徒の友』の教会紹介や、『こころの友』で父に似たような人がいるな(写真で)と思ったら父だった。そこで「震災詩人」との肩書を知った。正直今迄に父が書いていた作品はよく分からなかった(実家に凄い賞の数々が飾ってある)が、震災詩には父の信仰が見えて胸が熱くなった。

星野さんが一番初めに出会った御言葉は「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

私はイエス様の「だれでも」に愛を感じる。星野さんは「私がどんなに絶望しようが、どんなに生きたくないと思おうが、いのちというものが一生懸命生きようとしているのです」と、語っていた。

私の父も神が与えられた命を一生懸命生きている。私は毎日イエスさまのところに行く!そして休む!祈る!

何十年か振りに私はアパ・ルームを使用中。満たされるのは大事だ、と一ヶ月の新生活で改めて知らされた。

2024/5/5 週報メッセージ

「主イエスの憐れみ」 (マタイ26:46)
                        川﨑 信二

 メジャーリーグの名実共にトッププレイヤーで年収も日本人のプロ野球選手とは桁違いの人気アスリート。
彼の信頼していた通訳がお金の管理もしていたようですが違法賭博に手を染めて負債を抱えたため勝手に彼の口座から多額のお金を引き出して窃盗の罪を犯してしまいました。
功名な手口で悪質性もある訳ですからそれなりの償い、刑に服すべきことは当然のことです。地上では許されないことがあります。またそこには依存性の課題もありますし一概には言及できない事柄でもあります。
一方、私はこの件を、主イエスとイスカリオテのユダとの関係に思いを巡らせてみた時に、「罪と赦し」ということを考えさせられました。
イエスは赦した。いつも近くにいた信頼のできるユダ。お金の管理やスケジュールのやりくり、正にマネージャー的な役割を一手に引き受けていた会計係のユダ。
彼は銀貨30枚でイエスを権力者の手に渡し、自分を愛してやまなかった恩師を汚れた金と引き換えに売り飛ばしてしまった。ユダは後悔し、いたたまれない思いが頂点に達し、自ら死を選びます(マタイ27:3)。
彼の死を知った主イエスは、彼の罪と死を引き受けて十字架に向かわれたのではないでしょうか。最後の晩餐でも既にそのお気持ちだったとは思いますが、ユダの死が迷うことなのないご決意となったのでは、と推察します。もちろん、そうでなくても神の計画は成就されますが‥‥。イエスは全ての人を赦し、この私の罪を赦して下さり、全ての人を救う方であることを、改めてこの出来事を通して思わされた次第です。

2024/4/28 週報メッセージ

「見張りの役目」  イザヤ62:6

川﨑 信二

戦争はいったん始めてしまうとこんなふうになる。ロシアとウクライナ、イスラエルと中東情勢。心を痛める報復連鎖のスパイラルだ。

戦争を長引かせる要因の一つに徴兵制がある。イスラエル政府はハマスやイランの攻撃に対応できるよう兵員不足を補うべく徴兵期間の延長を法案化したい考えのようだが、戦争悪化に拍車がかかる事案として懸念される。

国民の間で問題視されているのは徴兵の不平等である。今までもそうだったが、ユダヤ教超正統派の若者は徴兵免除とされてきたが、今後も免除されるかどうか。

これが国民の不満を高めている。イスラエルは予備兵役を入れると国民のほとんどが兵士となる。国民的義務を担おうとせず、仮に徴兵が認められたら、超正統派政党が連立離脱に走る構えだ、という。

 「祈り」に専念する宗教家が、宗教ゆえに免れてきた兵役義務だが、他の若者が戦争へ行くことには賛成しているのに、いざ自分たちにも火の粉が飛んできたら政府に圧力をかけるのだろうか。そもそも、平和を祈るべき彼らが戦争勃発前にそれを止めるのが役目だったのではないか。

ロシア正教の総主教がプーチン大統領の戦略を祝福したことは知られているが、かつての日本基督教団も戦争加担の道を歩んだ過去がある。権力に屈した過去がある。宗教の役割は何だろう。宗教が権力を持つことは恐ろしい事だが有事には国体の過ちを全力で阻止する気概が期待される。戦争よってどれだけの人的財産が奪われることか。始まってからでは遅いと感じる。

 私の伯父は戦前に神学校に入学したが学徒出陣で応召されシベリア抑留で辛酸を嘗める経験をした。戦後3年して復員し、再度神学校で学び牧師となった。学生を送り出す時点で既に勝敗は決まっていた。けれど一度始めた戦争はどちらかが敗北し甚大な損失を被らない限りは終わらない。

預言者の「見張り」の役目とはどんな意味なのだろう。最初は戦争に賛成し、自分たちにも危害が及ぶと分れば反対に転じるのでは遅すぎる。平和のためにキリスト者には何ができるのか。ただただ祈らされるばかりだ。