聖書箇所 フィリピの信徒への手紙 第3章5節~14節
説教題「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」
お話 山本修一牧師
新聖歌 396番 428番 49番
聖書箇所 フィリピの信徒への手紙 第3章5節~14節
説教題「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」
お話 山本修一牧師
新聖歌 396番 428番 49番
「神が人となられた」 (フィリピ書2:6-11)
今週は「説教断片」」はお休みです。
今年のクリスマスも、ベアンテ・ボーマン先生のメッセージとチェロの演奏を聴きました。柔和なお顔で、流暢な日本語を話し、時折出るユーモア、ご夫妻の掛け合いは、楽しかったですね。そしていわずもがなチェロの演奏はすばらしかったです。家に帰ってあらためてボーマン師の「CD」を聞きました。私は音楽のことはよく分かりませんが、心に響くチェロの表現力の豊かさには感動しました。
ボーマン先生は70数年間、神さまに豊かに用いられてきました。なおもこの器が豊かに用いられるように祈っていきましょう。
ところで「なぜ神の子であるイエスが人となられたのでしょうか。」少し補足します。
第一に、人に対する神さまの愛を明らかにするためです。イエスさまが神のご栄光のままであれば、だれも近づくことはできません。人となって、愛し、愛される関係になられたのです。
第二は、私たちの罪を救うため、救い主となるためです。私たち人間には絶対にできないことの一つは、自分の罪を解決するということです。人としてのイエスは十字架につけられて、私たちの罪から救って下さったのです。
第三は、キリストはダビデの町でお生まれになるという預言が実現されるためでした。旧約時代の預言によれば、人類の救い主(メシア)は、このダビデ王の子孫から生まれるとの約束がありました。私たちの約束は何でしょう。「キリストを救い主として信じるものは、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ」ことです。
それでは皆様よいお年を。(山本)
聖書箇所 コロサイの信徒への手紙3章12節~17節
説教題「いつも感謝していなさい」
お話 山本修一牧師
新聖歌 171番 344番
桜ヶ丘教会創立100周年記念クリスマスコンサート
聖書 フィリピの信徒への手紙第2章6節~11節
説教題「神が人になられた」
お話 ベアンテ・ボーマン先生(ルリ子・ボーマン先生)
新聖歌 86番 76番
「限りなく尊い愚かさ」 (マタイ書2:1-12)
アドベント(到来)という言葉は、ラテン語の「アドヴェントゥス」という言葉から派生しています。アドベンチャー(冒険)という英語も同じ言葉から派生しています。神の御子の到来アドベントは、また神の冒険アドベンチャーでもあるのです。主イエスは、どれだけの人が主に立ち帰るか何の確証もないままに、ただ私たちを愛するが故に、命懸けの冒険を冒して来て下さいました。占星術の学者たちは、ただ救い主を礼拝するだけのために、遥々やって来て最上の物を献げ、それだけでもう十分に満たされ帰っていきました。これこそがクリスマスの祝い方です。私たちを救うために、命懸けの冒険を冒して来てくださった神様に対して、私たち人間にできることは、ただその神様を礼拝することだけなのです。学者たちの贈り物は彼らの商売道具であったという説があります。それを献げたのであれば、彼らは仕事を変えたのです。自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと変えたのです。しかし彼らの目の前には、粗末な布に包まって貧しい若夫婦に抱かれている赤子がいるだけです。貧しさと弱さと無力さの象徴のような赤子に、大切な商売道具を献げて自分の生き方さえも変えようとする。そんなことは愚かです。しかしその愚かとも見える行為こそが、実はクリスマスに最も相応しいのです。なぜならクリスマスとは、父なる神様が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げて下さった出来事だからです。ご自身に背き、御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を犠牲にして下さった。それによって人間が神様に立ち帰るという保証は何もないにもかかわらず。これは愚かです。賢くありません。しかし私たちは、この限りなく尊い愚かさによって救われたのです。私たちも、愚かと思えるようなひたむきな思いを持って主を愛していきたいと思います。それが主の冒険に応える私たちの冒険なのです。
(12/17 柏 明史師説教)
「闇に輝くキリストの光」 (ヨハネ書1:1-5)
待降節第二主日に入りました。この時期にはキリストご降誕の記事(マタイ書、ルカ書など)を熟読し、思いを深めていきましょう。
クリスマスの二つの特徴を聖書からあげますと、第一は、クリスマスは不思議で、神秘的で、驚きに満ちた出来事であり、第二は、クリスマスは喜びと賛美に溢れる出来事であったことです。私たちが聖書の、真のクリスマスに近づけば近づくほど、不思議と神秘を発見し、喜びと賛美に満たされるでしょう。
今朝の聖書箇所は「暗闇」が強調されています。創世前も、旧約の時代も、イエスの時代もそして現代も「暗闇」の中にあるのです。では「聖書のいう暗闇」とは何でしょうか。聖書の暗闇とは、私たちを造られた神さまに背を向けている、神さまとの関係が断絶している、自分中心に生きている。…その結果、この世は罪と汚れに満ちている。これが闇だというのです。 この暗闇に、『光』として主イエス・キリストが来られたのです。
この「光」は二つの目的を持っていました。一つは「愛の光」です。自己中心の、冷たい私たちの心を、人を愛することができる心に変える「光」でした。もう一つは「いのちの光。永遠の命の光」です。イエスは「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)といわれました。イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストの十字架と復活を信じるものは、「死から命に移っている」のです。
さらに聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5)という喜びの知らせを告げているのです。喜びと賛美にあふれたクリスマスを迎えましょう。
(12/10 山本修一師説教)
聖書箇所 マタイによる福音書第2章1節~12節
説教題「限りなく尊い愚かさ」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 68番 83番
当教会では、12月24日にクリスマス特別礼拝をおささげし、その後に創立100周年記念コンサートを開催しますので、どなたさまも、お気軽に集会にご参加ください。
(当教会は2023年6月で創立100周年を迎えました)
●9:30~10:00 こどもクリスマス会 こどもクリスマス礼拝 おはなし「ひつじかいへのお知らせ」」
●10:30~12:00 クリスマス礼拝 メッセージ:ベアンテ・ボーマン先生「神が人となられた」 聖書箇所 フィリピ2:6~11
●13:30~14:30 創立100周年記念クリスマスコンサート チェロ:ベアンテ・ボーマン先生 ピアノ:ルリ子・ボーマン先生
「お言葉どおり、この身に」 (ルカ書1:26-38)
アドベント第一主日を迎えました。本日は「マリアの信仰」を学んでいきましょう。
イエスの誕生物語には、三つの奇跡があったといわれています。①神が人となられたこと、②処女が妊娠したこと、③これをマリアが信じたこと。この中で最も偉大なのは、三番目であると、いわれています。マリアの信仰とは、「聖霊によってイエスの母になる」という召命に、素直に,純粋に応答したものです。
いったいマリアとはどんな人だったのでしょう。聖画などでは、母として完成された、包容力のある「聖母マリア」として描かれていますが、天使の知らせを受けたときのマリアは、いまだあどけなさも残る10代前半の少女でした。平凡で普通の結婚を夢見る人でした。しかし彼女は、主イエスを受け入れるにふさわしい、純心で、思慮深く、信仰の篤い人であったと想像されます。
マリアにとっては、この受胎告知は、前代未聞で、耳を疑うような知らせでした。当初は、「どうしてそのようなことが…」と疑ったのです。喜びはなく、不安と戸惑いでいっぱいでした。そもそも天使に出会うということさえ驚きの出来事でした。
その後、マリアは天使の知らせを思慮深く聞きました。天使の最後の「神にできないことは何一つない」との宣言を聞いて、マリアの信仰は目覚め、大きく変えられました。神の言葉を信じれば、「神にできないことは何一つない」ことに気づいたのです。マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と信仰告白をもって応え、やがて神の子を身ごもることに伴って起こる命の危険、労苦、困難をも乗り越えていくことをも受け入れたのです。
(12/3 山本修一師説教)