写真:K・Kさん提供
7月第5誠実の礼拝は、朝位真士牧師によるお話で、「イエスとサマリヤの女」についてでした。
聖書箇所はヨハネによる福音書4章第1節~26節です。
サマリヤの一人の女性が、イエス・キリストに出会い、信仰を持つようになったお話でした。
この女性は罪も深い女として描かれています。
また、当時のユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していたということで、ユダヤ人のイエス・キリストが、この女性に話しかけられるということは、驚くべきことであったと考えられます。
まず、イエスは、自分を低くされて近づき真の神様についてお話をされたということです。
伝道のためにへりくだる熱心さと、主の知恵と愛が溢れていたということです。イエスは、水汲みに来たサマリヤの女に「水を飲ませてください」と言われたのです。
「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水をほしいとと頼むのですか」と女は聞きます。
「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」とイエスは答えられます。
わたしたちも、ここで、生きた水とはどんな水?と思います。
お話では、「生ける水は求めて得られる神の賜物である」ということです。
イエスは、井戸の水をさして「この水を飲む者は誰でも渇く。しかし、私があたえる水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧きでる。」と言われます。
この話をきき、女は生ける水をほしいと言いますが、イエスは、女についてその過去を言い当てます。女は、とても驚いたことと思います。生ける水を飲む前に、罪なる過去を捨て去り、罪の生涯から離れなければならないということです。
「渇くことがない水、さらに、飲めば泉となって湧き出る水」を、想像するとどのような水なのかと思いがめぐっていきますね。『神の賜る恵みは、こんこんと湧き出る泉の生ける水のように、私たちの心の中に湧き出て尽きることはない。喜びも力も愛も、この泉から湧き出て流れる恵みの流れである。自分の力で絞り出すものではなく、枯れることがない生ける水、すなわち永遠の命に至る水で、尽きることがない。』というお話を伺いました。
そして、イエスは、イエスを通し生ける水を与えてくださる神について、礼拝する場所は、山でもなくエルサレムでもないところであるとも言われます。
「霊と真理をもって礼拝する時が来る。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われます。
「キリストの体なる教会」では、礼拝を日曜日ごとに捧げます。教会は教会堂の建物ではなく、神によって召し出された者たちの集合体を意味すると言われています。それぞれが仕え、教会を建て上げています。
わたしもサマリヤの女のように、イエス・キリストに出会い、教会に行くことが許されています。
「教会ってなんですか」、答えは「キリストをかしらとしたキリストの体です」ということですので、私たちは、体の一部として、誠を尽くして働き、霊と真理をもって礼拝を捧げたいと思います。