2016/1/3 週報メッセージ

   喜びの歌と共に刈り入れる
                                                                                                        朝位 真士
  新年あけましておめでとうございます。今年は詩編126編全体が与えられました。1~3節には、バビロン捕囚からの帰還と驚きと喜びが語られています。4~6節には、喜びの歌を歌いながら連れ帰ると語っています。特に5~6節「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた種を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」「涙と共に種を蒔く人」たちはウガリツト(エジプトの古い宗教的神話において、種を蒔く時は肥沃の神の死と結び付けられ、収穫はその神の再生と結び付けられた)と言われる。ウガリツトは、地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラにあった古代都市国家です。
 今日の農作業と違って、当時の種蒔きは容易なことではなかったでしょう。「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人」と言われる「出て行った」とは、「行く」という動詞が重ねられて強調されています。重い足を引きずりながら、やっとの思いで出かけて行ったという足取りを想像することができます。しかしその重荷を背負った者だけが、豊かな収穫の「喜び」にあずかるのです。5~6節には「喜びの歌」も繰り返されています。民族の歴史と同じように、個人の生活の断片が深刻な危機(涙をもって種蒔くこと)の中から開始します。ですがその際、終点でその人の持っているものは、素晴らしい人生の大逆転であると言われるとおりです。
 捕囚からの帰還の背景には、どれだけの人々の涙と労苦があったことでしょうか。神は私たちの労苦を覚え、その涙を革袋に蓄えてくださるお方(詩65・9)なのです。私たちも主にある希望を抱いて、福音の「種蒔く人」にならねばなりません。いかに熱心に伝道しても、さらに効果が見えなくても、失望すべきではありません。涙をもって祈って蒔いた福音の種は決して無駄にはなりません。必ず収穫を喜ぶ時が来るのを信じ、時を得るも得ざるも励んで証しすべきです。(コヘレト11・1~6、Ⅱテモテ4・2)