2025/1/26 週報メッセージ

人間をとる漁師に

川﨑 理子 

 わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。

                  マタイ4:19

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。その時から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた。「天の国」は「神の国」であり、「悔い改めよ」とは「回心しなさい」との意味である。いよいよ神の独り子としての主イエスの歩みが始まったのである。

 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンと兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

 至近距離で見られながらの作業はどうだったのでしょう。

主イエスの視線を感じながら黙々と二人は漁を続けていた。

さらに進んでその先でヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。

 冒頭の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」は圧倒的な神の権威に満ちた言葉だった。有無を言わさない権威。それは恐怖ではなく、神の臨在そのものであり、その言葉通りにせずにはいられない神々しさであった。だから彼らは「網」を捨てた。また「舟」と「父親」を残して、イエスに「従った」のである。網も舟も父親も彼らの大事なものであり、生活のすべてだったがそれを捨てた。それ以上のものが主イエスの言葉にあったからである。

主イエスは宣教をひとりではなく、弟子と共に行った。弟子と言っても、宣教のための雄弁な言葉を持っている者ではなく、地方のガリラヤ湖で真っ黒に日焼けした漁師たちだった。その彼らに主イエスは「人間をとる漁師に」と声をかけられたのである。すなわち、わたしがあなたを「新しく造り変える」から「共に行こう、共に生きよう」と。主イエスと共に生きる光栄。この上ない、やりがいのある最高の仕事…。彼らは新しく変えられたのである。

主イエスはこの4人を御覧になった。ルカ福音書では「夜通し苦労したが不漁」(ルカ5:5)で落ち込んでいた、とある。主は仕事で落胆し、行き詰まっている者を見つめ、新たに弟子という職を与えてくださる。

わたしたちも主イエスに見てもらい、造り変えて頂けると信じるなら何と幸いなことでしょう。主はあなたをスカウトしようと、直ぐ近くで見ておられます。