「救いの基準」
川﨑 信二
今年はパリ・オリンピックの年です。
選手がオリンピック出場を果たすためには選考基準をクリアしなければならず、代表枠をめぐって厳しい戦いが繰り広げられます。
明らかに力の差がある人はともかく、残りの1つの枠を何人もの選手たちが競い合い、後もう少しで届かず、ギリギリで落選し涙を飲んだアスリートもいるでしょう。
その選考基準が分かりにくく、なぜこの人が落ちて、あの人が選ばれたのか。納得のいかないこともあり、最終予選では0.01秒差で洩れてしまったがそれまでの成績はそれなりの記録を出しいるのにそれが考慮されない、という場合もよくあるそうです。オリンピックに出られるか、そうでないかはアスリートにとって人生を左右する大きなことだけに基準は分かりやすいほうが禍根を残さずに済むのに、とも思うのです。
これらは力が拮抗している時だけに起こる事例です。断トツであれば当然起き得ないことなのです。
では、聖書が語る「救いの選び」の基準はどうか。誰が天国に行き、誰が落ちるのか。誰も天国行きの基準を満たしている人はいない。選民イスラエルも神の選考から洩れ、律法学者でさえも神の掟を守りきることはできなかった。
人間は皆、罪人であり拮抗しています。聖人のように突出している人はいない。神の前では全員「黒」。黒を白に変えてくださるからこそ「救い」なのです。主イエスの十字架の血潮こそが私たちの罪を清め、赦すことができるのです。
だから、あの人は地獄行きだ、と審いてはならない。私も、あの人も、赦され、救われているからです。
あの人も、私も、神に選ばれた民であることを忘れないようにしたいものです。