2024/6/2 週報メッセージ

「見えない光」 (ヨハネ9:40-41)

川﨑 信二 

 ある日曜日の午後、教会の皆さんと礼拝堂にて上を見上げ、天窓から差す陽の光について語り合いました。

「夏は本当に暑いんだよね」とある信徒さん。

 建物の中に燦々と日の光が注がれるのは有難いことですが、暑すぎると健康面や礼拝そのものにも支障が出るのかもしれません。私はまだ夏を経験していませんが。

 聖書では天から注がれる光は「闇夜を照らすまことの光」(ヨハネ1:5)であり、独り子イエスの栄光です。私たちの罪を白くして救うところの神の愛が、この光に込められているのです。

一方で、光は神の審きとも言えます。隠れた罪を光の前にあぶり出し、晒すのです。使徒パウロはキリスト者を迫害していた時に主の光に打たれて地に倒れました(使徒9章)。

私たちは光に耐えられない生き物。神に直接会おうとしても眩しすぎて見ることさえできないのです。人の罪を審く神の義。そこに神の愛が注がれて初めて光は穏やかな光となる。

神の愛とは御子イエスを天から贈って下さる無償の愛です。故に私たちは光の子として歩むことが許されているのです。

時に、神は人を見えなくさせ、不自由にさせます。本当の光(真理)を見えるようにさせるために、です。

山口博子さん(ゴスペルシンガー)の歌で『時を忘れて』という曲があります。

目を閉じなければ見えない世界がある。

口を閉じなければ言えない言葉がある。

耳をふさがなければ聞こえない声がある。

歩み止めなければ会えない人がいる。

少しくらい遅れたとしても大切なものを

見つけたいから‥‥

道であり真理であり命である主に尋ね求める

時を忘れて‥‥♪