「わたしが選んだ器である」 (使徒9:15)
川﨑 理子
5月は父、息子、姪っ子そして自分の誕生日に加え、受洗記念日がある月で、「おめでとう」「ありがとう」とのメッセージを沢山受け取り、また伝える月だった。
上記の御言葉は35年前に受洗後の学び会で、開かれた箇所である。それこそ沢山の方々から「おめでとう」と受洗の祝福を頂いたのだが、聖書の学びをしてないのは不味いのではと思い、牧師に相談すると、「祈祷会へ来ているから大丈夫。でも、学んでみたい箇所があるなら」と言われ、私は「使徒行伝を学びたい」と伝えた。
新約聖書の「〇〇への手紙」の殆どはキリスト者を迫害していたパウロが著者だったので、パウロを知りたいと思った。自分で読んで気になる箇所を牧師に質問するという学びが始まった。9回目の学びで「なぜアナニアに幻の中で主はサウロのところへ行け、と言われたのかな」と牧師から質問されたので、「ダマスコにアナニアがいたから。」(使徒9:10)と答えた。「そうですね。もう一度理子さん、15節を読んで下さい」「すると、主は言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
「この言葉でアナニアは兄弟サウルの為に主がわたしをお遣わしになったと知ったんだね。」と牧師。今思い返してみると普通の会話だ。しかし、質問されたのはあとにも先にもこの一回だけだった。この学びの最後に、「行け。わたしが選んだ器だ」に促されて受洗し牧師になり、今日在るを得ている。今鮮明にあの時の事が思い出されるのは、私を桜ヶ丘教会へ主がお遣わしくださったからだ。