「十字架の愛」(神の愛⑧)(Ⅰヨハネ 3:11-18)
説教者にとって、十字架を語ることは、普段以上に厳粛な気持ちに立たされるものです。それでも心の中は喜びに満ち、光栄に感じています。
十字架はキリスト教信仰にとってはなくてはならないものです。十字架のない教会もありません。では十字架信仰とは何でしょう。十字架信仰とは、人の罪を救済するために、御子イエスが十字架にかけられ、復活されたと信じる信仰です。
十字架は、ローマ帝国のおそるべき極刑でしたが、それ以上に主イエスの使命と目的に驚かされます。御子イエスのご降誕は、「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ためであり、主の十字架はわたしたちの罪を赦すためでありました。これが十字架の意味です。
私たちは教会歴が長くなると、この驚くべき真理が、驚きを通過して何も感じなくなってしまう傾向があります。わたしたちの十字架信仰は、十字架についての知識を積むこと、学ぶことではありません。キリストの十字架は「我が罪のためなり」との一事を知ることであり、信じることであり、生涯を通して究めていくことであります。
十字架の愛のすばらしさは、たとえようがありません。十字架の愛は、第一に「与える愛」でした。それは犠牲の愛であり、徹底的に与える愛であり、いのちをささげる愛でした。第二は「赦しの愛」でした。私たちは人を赦すことができませんが、主イエスがいのちをささげて多くの罪を赦してくださったのですから、私たちも人の罪を赦すことができるのです。第三は、「最も崇高な愛」でした。十字架の愛は 言葉では表現できないほどの純粋で、高潔で、崇高であります。
この十字架の愛を慕い求める者には、その愛は注がれるのです。
最後に十字架の力です。それは物理的な力ではなく愛の力です。弟子たちは弱さから強さへ、恐れから勇気へ、疑うものから確信するものへ、大きく変えられました。十字架は人の人生を変える力があるのです。
(10/8 山本修一師説教)