説教断片「十字架につけられる」(ヨハネ19:16b-27)
山本 修一
今週は受難週に入ります。本日の「シュロの聖日」から、イースターの前日までが受難週です。受難日が金曜日です。
私は十字架を説教するときには、いろいろな思いが重なります。
第一に、福音の奥義である十字架を語れることは大きな喜びです。第二に、その反面、あまりに高く、広く、深い十字架の真理を、どこまで把握しているかという不安と戸惑いもあります。第三に、十字架を学べば学ぶほど心が滅入る(苦しくなる)のです。十字架の苦しみと痛みを覚えます。イエス様の体にムチが打たれ、手に釘が打ちつけられ、槍で突き通された姿を思い浮かべると、胸が締め付けられます。さらにその痛み、苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められるのです。
かつて高校生の時に、名古屋の教会に宣教師のダビデ・マーチン先生が来られました。その時に十字架の説教をされました。大きな体で、両手をいっぱい広げ、たどたどしい日本語で、十字架のお話しをされました。そのとき先生はうっすらと涙を流しておられたことに気づき、驚きました。2000年前のイエスの十字架のことで、目に涙を浮かべて語られたことを忘れることができません。
本日の聖書箇所は、主イエスの最期の場面です。ヨハネ書は、他の福音書とは異なり、十字架への道をとても簡潔に書いています。私たちが見るべきは 「自ら背負った」 主イエスの十字架なのです。ここにこそキリスト教の神髄ともいえる、重大で、深い、驚くべき真理があります。それは私たち罪人が背負うべき十字架を、罪のない主イエスが自ら背負ってくださったという極みの愛です。このため主イエスは、父なる神と霊的に断絶せざるを得ず、それが地獄のような肉体の苦しみ以上の霊的苦しみを味わわなければならなかったのです。(4/2説教から)