誘惑と試練
朝位 フミ子
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4章1節)
この「誘惑」という言葉は、誘惑と訳されるだけではなく、もう一つの言葉で訳されます。それは「試みる」「試練」というものです。本当に不思議なことに、誘惑と試練は聖書では同じ言葉で、聖書の文脈によって試練あるいは誘惑と使い分けられている言葉なのです。
誘惑とは、その出来事を通して私たちが神様に躓き、神様への信頼を失って、神様から引き離されてしまうことだと言ってよいでしょう。その出来事が誘惑になるならば、私たちが信仰を失い、教会生活から離れ、神から引き離されてしまうことですから、私たちは神様のおられない世界に生きることになってしまうのです。
反対に試練については、使徒パウロの有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙一、10章12~13節で、試練には必ず逃れる道があると語られます。試練には必ず出口があると言われます。試練の先には、必ず逃れる道、出口が用意されています。それがどこにあるのか、それがいつなのか、私たちには分からないことですが、分かっているのは、神様は真実な方であるということです。ですから、神様は私たちに乗り越えられない試練や、耐えられない試練は決して与えられないわけです。私たちは試練の中でも神様に信頼し、神と共に歩み抜くならば、試練を通して、試練を経験する前よりもずっと深く神様との絆が固く結ばれる機会となると、使徒パウロは教えているのだろうと思います。
私たちの人生の経験をふり返れば、私たち人間には、試練と誘惑をあらかじめ区別することはできないことが分かります。私たちにできることは、神さまと共に試練を歩みきったとき、神が備えてくださっている出口を出たときに、神様の守りと導きの確かさを知らされて、神への信頼がいっそう堅くされるということでしょう。