人が死んだらどうなるのか?
朝位 憲義
聖書の教えでは、キリスト御自身が、人が死んだら復活すると言っています。キリストはその言葉通りに実際に、イースターの祝いの時に、神の力によって、死人の中から本当に復活しました。復活は、キリスト教の信仰の中心なのです。
人が死んだらどうなるのか、来世はあるのか、ということについては、色々な見方や考え方があります。死んだら無に帰ると考える人もあり、来世はあると考える人もあります。
聖書は、死んだらどうなるのか、来世はあるのかということについては、あまり積極的には語っていないように思います。その理由は、来世があるかどうかはっきりしない、あいまいだからということではなくて、来世があるかないかということよりも、その根拠として、私たちに向けられている神の愛が、どれほど深く、確かなものなのか、ということを語ろうとするからであると思います。
新約聖書のローマの信徒への手紙を書いた、使徒パウロも、その手紙の中で、私たちが死んだ後どうなるのか、ということについては、わずかに触れているに過ぎないように思います。それは、死んだらどうなるのかということが、よく分からないということではなくて、今、お話したように、何よりも、私たちをしっかりと捉えておられる神の愛を語る事に集中しているからです。使徒パウロの手紙を読んでいくと、死んだらどうなるのかということについて、使徒パウロに、心配や恐れ、疑いがあったとは思えません。
私たちを創造された神は、私たちを救われる方、死の力に打ち勝って、主イエスを復活させた神の愛に、安心して、死の後のことはお任せすることができると考えていたのだと思います。それが、使徒パウロが、死後のことについて、多くを語らなかった一番の大きな理由であると思います。このことは、聖書全体に言えることであると思います。