朝位真士
序
今日は1コリント8章全体を通して聖書を見ていきましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの8章全体を2つにまとめています。1つはキリスト者の自由。2つは知識より愛。分解(偶像にささげた肉を食べることへの可否について)そして尚4つに分解しています。
1・1~3知識と愛。2・4~6偶像のむなしいこと。3・7~11良心の問題。4・12~13まことの愛。と分解しています。コリント教会に起こった問題は、偶像に供えた食べ物キリスト者は食べてもよいかどうかという問題である。これは単に食べる食べないというだけのことではなく、偶像に対する信仰の問題であって、特に偶像礼拝に直面して生きていかなければならない私達日本人キリスト者にとって実に身近な重大な問題である。当時、偶像に供えられた犠牲の肉はその一部を祭司が食べ、残りは供えた者が自宅へ持ち帰って食べるか、市場へ放出されていた。それゆえ市場ではいつも偶像にささげられた食糧品が売られていた。そのため何らかの形で偶像と接蝕しない肉はほとんど手にはいらないのが実情であった。
本
さて聖書8・1~13節を見て下さい。ユダヤ人は、偶像に供えられた肉を食べれば偶像に汚されるとして決して食べなかった。この考えはキリスト教にも入り、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者のために定めた4つの禁止事項の中にも「偶像に供えた物」を避けるべきことが教えられている(使徒15・29)p244参照。コリント教会には、偶像に汚されることを恐れ、供え物の肉を食べまいとする人と、偶像の神など実在しないのだから偶像に供えられた食べ物を食べても何の害もないと言って、大胆に食べる人がいた。1~2節を見て下さい。このような知識はやたらに自己中心的で高慢な態度を取らせる結果になりやすい。
パウロは、愛のない知識は建設的ではなく、破壊的であるから、これに愛を加える必要を説いています。4~6節を見て下さい。異教徒が信じているような性質を持つ偶像は実在しない。それらは神ではなく、ただの木片、石片にすぎない。天地万物の創造主であられる
唯一の神以外に神はないのであります。唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私達もこの主によって存在するのです。悪霊や偶像は神でも主でもない。父なる唯一の神と唯一の主なるイエス・キリストだけが創造者なる神であります。7~13節を見て下さい。ここに信仰の弱い者に対する配慮が述べられています。
そこでパウロは教会の信仰の弱い人に対する愛から来る自由の制限を勧めています。13節に兄弟をつまづかせないために、「わたしは今後決して肉を口にしません」というパウロの決意は、弱い兄弟たちに対する実に尊い愛であります。弱い兄弟をいたわるパウロの姿がここに見られます。それはあくまでも、キリストの愛による配慮であります。
結び
私達が何を知っているかというよりも、私達が神に知られているということが大切であり、神を愛する者すなわち兄弟を愛する者(1ヨハネ4・21「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」p446私たちは互いに愛し合い、互いに徳を建てるために助け合い、互いに信仰の進歩を図るために力を尽くさなければなりません。そのためには信仰の弱い信者を躓かせないために、キリスト者自由をも制限しなければならない場合があります。キリストの真理を知っているからといってむやみに人を裁いたり、あるいは議論を戦わせてかえつて人を躓かせるようなことは、神様の御旨を悲しませることであります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げます」私達教会に古く長いお互いはわたしを含めて反省しなければならないことは、新しい方々に対してもっと気を遣わなければならないと思います。
マルチンルターが「キリスト者の自由」とは1言でいえば「キリスト者という者は、すべてのものから自由である、そしてすべてのものに奉仕する」という、たつた2つのことを克明に語っています。そして教会を離れては私共の信仰は無い。これは宗教改革者が徹底的に言った言葉であります。そしてルターは9つのことを信仰と教会について語っています。
1・御言葉によって神を信じない信仰は長続きしない。
2・信仰は心と思いと意志とを1つにする聖霊の一途さを意味する。
3・自らを人間として認める謙遜。
4・自由な隣人への愛。
5・信仰は心に受けてものについて語り、聞いた言葉を言葉に表す。
6・真のキリスト者は言葉は少なく、多く行う、行わない者はキリスト者ではない。
7・恐れなく大胆に信仰を告白し、御言葉を人々に宣べ伝える事はキリスト者の生活について最高のものである。
8・キリスト者のすべての業は、神の賜物であり、恵みである。
9・教会はすべての神の言葉を聖書に照らして検討する。
大変含蓄のある言葉であります。