I姉の受洗に際して
朝位 真士
先週の聖日(10月4日)において、I姉が受洗された。姉は中・高・短大とミッションスクールにおいてキリスト教の教育の中で過ごされた。学校では毎朝の礼拝、昼食時のクラス別の礼拝、キリスト教週間には夕拝も義務づけられて、キリスト教にどっぷり浸った生活をされた。友人達は受洗されたが、姉は洗礼を受けなかった。短大は神学部のあったA学院で、授業はキリスト教学が必修科目。礼拝は昼休みに講堂で教授方と共に、それぞれ聖書・讃美歌を持参して参加されていた。そのような中で姉の中にはいつも讃美歌のメロディーや詞章が流れ、イエス様がおられたようである。今姉は人生の後半に入り、身近な方を亡くされたり、看取るようになられると、死というものを深く考えるようになり、ずっと自分はクリスチャンだと思っていたが、やはりもう一つなんだか寄辺ない、心許ない感じがあらわれて、これは洗礼を受けていないせいだと気づかれた。08年12月14日、ベアンテ・ボーマン先生ご夫妻のクリスマス・チャペルコンサートの案内をご覧になられ、教会に出席された。それ以後、ときどき教会の礼拝に出席されて、今年に入って信仰講座を受講された。姉のユーモアあふれる会話で、1時間の学びもすぐに終わってしまい、ついつい時間延長する本当に楽しい学びの時間であった。
姉の受洗に際して私が思い出す聖書箇所は、マタイ20章1~16節のぶどう園の労働者のたとえである。9時頃からいた労働者にも、12時頃、3時頃からいた労働者にも、また5時頃からの労働者にも、気前よく1デナリの賃金を与えてくださったように、神様はどんな年代にも救いを与えてくださる方であることを思いだした。