規格外だからこそ
川﨑 信二
イースターエッグ。卵は主イエスの復活の象徴とされている。ユダヤの過越祭で新しい命のシンボルとして、茹で卵を食べる慣わしが古くからあった。過越祭は、奴隷の地エジプトから聖地へ導かれたことを記念して行うものである。つまり卵には復活や再出発の意味があるのだ。
卵といえば、学生のころ養鶏場でアルバイトをしたことがある。ニワトリが産んだ卵を次々とケースの中に入れる作業があった。枠にピタッと収まる大きさのものを詰めていく。大きすぎるもの、また小さすぎるものは、いくら味が良くても取り除かれる。売り物にならないからである。だから、双子の卵などは養鶏場で目玉焼きにして美味しくいただくのである。モグモグといただきながら、質も量も満点なのに枠にはまらないだけで「資格なし」とレッテルを貼られることには疑問を感じたものだ。
では教会はどうだろうか。天国行きの資格はどれほど高いハードルなのだろうか。使徒パウロは自分のことを「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)とし「罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と告白している。しかし、そういう資格なき者を救うから「救い」なのだ。規格外だからこそ、主イエスの十字架の血潮によって規格内となり、神の子とさせられるのだ。地上の常識では考えられないことである。
以前、卵を食紅で赤く染める習慣があった。赤は十字架の血を表している。コロナ以降、茹で卵を提供する教会は減ったがその意味を汲み取りたい。
救いは無条件。一方的な神からの恵みである。能力とはいっさい無関係だ。主は、この私のために血を流してくださった。それにより、資格なき者にも主の復活によって天国が用意されている。まことに感謝である。主イエスのよみがえりを心から喜び、お祝いしよう。