愛に生きる人
川﨑 信二
かつてクリスチャン政治家として、北村徳太郎という人がいました。彼は運輸大臣、大蔵大臣までされた方で、福祉国家建設に情熱を傾けました。ゆりかごから墓場まで、これこそ理想の国家と信じ、福祉国家北欧を視察したのです。
しかしそこで彼が見たものは、無気力、頽廃の様でした。彼は福祉国家に絶望し、幻滅したのです。にも拘らず、よりよき社会を建設することは、意義あることです。しかし、神なき社会はどのように改造しても、自ずと限界が出てきます。究極は、人間が社会を動かすのですから。
地上に平和を創り出すのも、よりよき社会を建設するのも「神の業」であるから、人間の力でやり遂げようとするならばどんな善行でも行き詰まることになるでしょう。
北村徳太郎の理想国家の建設は失敗に終ったのでしょうか。しかし、その主にある愛の業は豊かな実を稔らせたことを一言述べておきたいと思います。実に北村は我が家にとって忘れられない恩人でした。
私の祖父川﨑義敏が佐世保教会の牧師であった昭和18年3月に47歳の若さでクモ膜下出血のため急逝し、祖母と7人の遺児たちが路頭に迷う事態となった。その時高知教会長老の北村長老が遺児献金を全国に募ってくださり、自らも援助され、戦中戦後の厳しい時代を未亡人の祖母と父たちは生き抜くことができたのでした。
祖父の死は川﨑家にとって試練でしたが、北村長老と教会の温かい支えをいただいた遺児たちは全員信仰告白に導かれ、3人が牧師となり、さらに次の世代もまたその次の世代も救いの恵みをいただています。
政治の、華やかな舞台では思うようにならなかったとしても、目の前にいる悩める友を救いに導いた功績は大きいと思います。神の業は国家制度という形よりも、むしろ、愛に生きる人を通して、信仰の実として現われることを改めて思わされた次第です。よきサマリア人の喩えは「異邦人や敵をも愛する」ことを意味します。私は、それ以前に、身近な同胞や家族にさえも、愛を注いでいるだろうか、目の前の人を愛せなくて大きなビジョンを語る資格などない。「小事に忠実」を痛感させられています。