2025/5/18 週報メッセージ

せこい神様?

川﨑 信二 

 B’zの「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」という歌の中で「信じる者しか救わない、せこい神様拝むよりは」という詞があります。確かに、キリスト教は「拝む」対象がはっきりしていて、それ以外は信仰の対象ではなく、偶像と見なします。

聖書には「主イエスを信じる者が救われる」ことが説かれています(ローマ10:9、ヨハネ3:16、マルコ16;16等)。

けれども、信じない者は地獄に落ちるとまでは書いていません。信じない者が不安になることが既に「神の審き」であること(ヨハネ3:18)、「滅びの宣告を受ける」こと(マルコ16:16)は書かれています。しかしそんな信じない者を信じさせて救う。そこに主の十字架の愛があります。むしろ、「救われた者が信じる」のです。救われていることを知って、改めて主に従う者となる。それが信仰です。

「信じる者が救われる」という考え方は「○○をしたら神様がご褒美をくださる」というのと同じく、報酬になります。逆に「○○をしなかったら神様は愛してくれない」ということにもなります。私たちが先に何かをするのではなく、神が既に代価を支払ってくださった。私たちの身代わりに罪の刑罰を御子が受けてくださった。そこに救いがある訳です。

自力での達成は「救い」とは言えません。救いは他力です。いえ、神力です。一方的な神の愛です。

神は狭量な方ではなく、先に惜しみなく与えてくださる方です。だから信仰において最も大切なことは、何かをすることではなく、受け取ることなのです。受け取ることから信仰は始まります。条件つきのタラレバ信仰ではなく「救われたから信じる」のです。

「ありがとう」は誰かに何かをしてもらった後に言う言葉です。先に「ありがとう」を言うのは魂胆が丸見えで、支配者に対するへつらいの臭いがします。「神様、本当に救ってくださり有り難うございます。」そこから信仰が始まり、応答の歩みが始まるのです。