川﨑 理子
「それからすぐイエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」(22)
「イエスは弟子たちを強いて…。」弟子たちがイエスを残して自分達だけ舟に乗ることを躊躇していたのに無理やり舟に押し込んだことが分かる。しかし主イエスは「祈るためにひとり山にお登りになった。」(23)
一人で父なる神と向き合う時間が欲しかった。バプテスマのヨハネの死を知り、友の無残な死への悲しみ、またご自分の命も狙われることへの葛藤、すべての人の救いの為に十字架への道を歩むための決意。その為に「ひとり人里離れた所に退かれた」のである。
そんな中で後を追ってくる病人や空腹の人達。主イエスは群衆を満腹にさせ、病人を癒し、エネルギーを費やした。充電する為にも、なんとしても「ひとり」になりたかった。どうしても「父なる神との交わり」=「祈り」が不可欠だったのだ。「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(23) ほどに霊的な恢復が必要だった。
弟子たちの乗った舟は「既に陸から何スタディオンか離れており逆風のために波に悩まさていた。」(24)
風に抵抗せず戻った方がよいのに律儀に主の言葉を守り、夜が明けるまで抗っていた。まだ暗い中、湖の上を歩いてきたイエスの姿は弟子たちには幽霊に見えた。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と主は直ぐに「しっかりしなさい。勇気を持ち続けなさい」と励ましてくださった。憂いを帯びた一人ぼっちの主イエスが父との交わりで新たな力を得、頼もしい言葉を発しておられる。
主イエスの言葉にペトロが応答し、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28)と立ち上がった。「来なさい。」(29) 主の言葉に喜んで舟から飛び降り、水の上を歩き始め、主に向って進んだペトロだったが、「強い風」に気がつくとたちまち「怖くなり」沈みかけた。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロの手を主が捕まえ「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」(31)と一喝された。「薄い」は原語で「小さい」の意。つまり「小さい信仰」。ここで主イエスはペトロを責めているのではない。からし種一粒の信仰があれば良い。
「イエスと歩きたい」という願いだけで良い。その求めに主は応えてくださるのだ。私たちも主の方へ進みたい」と願う小さい信仰をもって歩ませて頂きたいものである。