2025/11/2 週報メッセージ

召天された方々をおぼえて

川﨑 信二   

人は死んだらどこにいくのか。どういう状態になるのか。Ⅰコリント15章には「霊の体」になる、と記されているので地上の肉体とは違うのだろう。死を経験していない者にとって、死後の体については想像するほかない。

 召天、永眠、復活。死後の状態を表す言葉がある。私は「復活」がしっくりくると思う。理由は、主イエスが初穂として復活され、私たちにも復活を約束してくださったからだ。すなわち、私自身も体験できる恵みなのだ。

 召天は、地上から故人を記念するときに用いる言葉だ。遺族から見て、今は地上ではなく神のみもとにおられる。だから「召天者を記念する」のである。

永眠という言葉には、死後ずっと意識がないようなイメージがある。科学的には一番近い表現だとは思うが、死者は眠り続けるのではなく、目覚める時が来るのだ。

すなわち、神のもとで起きる。それが聖書的な死生観だ。

私は、永眠とは「永遠の安らぎ」という意味で理解している。

言い方はともかく、故人はいま、一番よいところで幸せを得ているといえよう。それが究極の、神の慰めである。

 死去を「凱旋」と表現する場合がある。ホーリネス系の教会では葬儀で「凱旋」と言う。地上の戦いを終えて、天に凱旋する。あまりピンとこないが、キリシタンへの迫害や弾圧されて殉教した人には正に凱旋だろう。厳しい試練に耐え抜いて死んだ人も凱旋。ただ、人間の功績ではなく、あくまでも神の召しであり、深いご計画によるものと言える。

科学的、あるいは生物学的な死では、その後、別の世界で生きることは不可能なことだ。しかし、私たちは主イエスの約束を信じ、そこに希望を置いて生きる民である。

故人との再会も期待できる。主イエスが愛する者と再び会ってくださったように、互いの再会も主イエスの愛によって果たされること、それが私たちの、今を生きる力となる。

死んでみないと分からないが、聖書には「希望は失望に終わることがない」

(ローマ5章)と書いてある。

主イエスの約束を信じ、この世の馳せ場をしっかりと走り抜きたいものである。