こどもの好きなイエス様(マルコによる福音書10章13〜16節)
川﨑 理子
子供の頃、母に連れられて通っていた教会学校で「こどもをまねく」という讃美歌(旧こどもさんびか48)があり「こどものすきなイエスさまよ」の歌詞を大きな声で歌った記憶があります。「こども」すなわち「わたし」を好きでいてくれるイエスさまを、好きだったからです。
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた」(13)ことを「弟子たちは叱った」のです。
弟子から見れば、多忙なイエスさまに近づくことは「非常識」なことであり、子供たちからイエスさまをお守りしなくては、と思ったのでしょう。
「しかし、イエスはこれを見て憤り」(14)ました。この「憤り」とは、不公平な扱いに対する「正義の怒り」でした。
子供たちをご自身のもとに連れて来るのを妨げること程深刻なことはないのです。イエスは「来させなさい」、「子供のように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14、15)と語ります。
「子供のように」とは、地位がなく、社会の為に貢献できない者こそ素直に神の国を求めることを表しています。
成長するに従い、家事を担い、働いて役に立つようになります。様々な力が身に着きます。身に着けたものを手放せなくなります。神よりも自分の力、人からの評価が気になり、神の国から遠ざかってしまうのです。
イエスさまは、幼子として馬小屋で生まれ、神の子として「神の愛」を顕して下さいました。その「愛」は「十字架」そのものです。弱さの中にこそ神の愛が宿るのです。
八木重吉作「神を呼ぼう」という詩があります。
「さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん泣くんだろうか ほんとに、うるせいよ、
あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ、うるさかないよ
よんでるんだよ。かみさまをよんでるんだよ。
みんなも よびな。
あんなにしつこく よびな」
待降節を前に、わたしに足りないものは何か、を教えられます。