主よ、あなたこそぶどうの木です
(ヨハネによる福音書 第15章 4~5節A)
川﨑 信二
主の年2025年を迎えました。年頭に与えられた聖句は「わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である」⑸です。
主イエスがぶどうの木です。私たちは主に繋がる小枝です。太い幹である主から栄養をいっぱい受けて歩む民がわたしたちであり、教会の本来の姿です。
週報の表紙にある教会の標語に「実を結ぶ生活」とあり、聖句が記載されています。今年の聖句と同じ節の後半。
「もし私に繋がっており、また私がその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(口語訳)
これは私たちの信仰生活を表しています。けれど、ぶどうの木である主イエスがおられなければ、信仰すらあり得ないことです。「実を結ぶ」という結果だけを意識し過ぎて肝心な「主を求める心」を見失っては栄養が末端まで届かず痩せた信仰(喜びのない生活)になってしまいます。
「私たち」の歩みが先にあるではなく「主」が先です。「主よ、あなたこそぶどうの木。私たちは繋がる枝に過ぎません」との告白をもって歩み出したいものです。
ぶどうは赤色のワインとなります。つまり、ぶどうの木は十字架です。十字架で流された主イエスの血潮を意味します。私たちの罪の身代わりに犠牲となられた主の愛がドクドクと枝に向って注がれている。この愛を素直に受けることが先決です。その実は喜び(ガラテヤ5:22)であり、心の満たしです。
イスラエルは乾燥地帯。水が少ないので地下深くまで、下へ下へと根を下ろします。少ない水分・養分を吸い上げる力が必要です。地下の見えない所でチュウチュウと吸引していて、それゆえに美味しい葡萄が成るのです。
赤ちゃんがおっぱいを吸うように、私たちが生きるのには信仰が必要です。
しかし私たちは自力で吸う力がありません。代りに幹である主が全部やってくれる。上から注いで下さる。私たちは祈り求めるだけでよいのです。
今年も、主を求め、主に繋がってゆく私たちとさせて頂きたいものです。