2024/8/11 週報メッセージ

主イエスの霊と共に

川﨑 信二 

この時期、日本ではいわゆるお盆の時期となる。「先祖の精霊をお迎えして供養をする期間」として「年に一度浄土から地上に戻ってくる空腹の先祖を家に迎え、共にひと時を過ごして冥福を祈りその霊を供養」する慣習だ。

キリスト教では、死者の霊は既に主の御許にあり幸福を得ているので、供養することも冥福を祈る必要もないという考えに立っている。それでも供養したいという遺族の慰めのために寄り添い、地上を去られた家族が今天にあり、全き至福(成仏)を得ていると信じることができるよう、また遺された私たちもやがて主の懐に帰る希望を持ち続けることができるようにと祈らせて頂くのだ。

 聖書では、霊といえば人の霊ではなく「聖霊」であり、復活の主イエス・キリストの霊を意味する。聖霊は目に見えないが今も生きて働く神ご自身であり、死霊ではない。

 けれども、聖書の時代にも「お化け」や「悪霊」の存在が恐れられていた。主の弟子でさえそういう迷信に陥っていたのだ。ガリラヤ湖の湖面を歩く主イエスを幽霊と見間違えている(マタイ14:22-33)。まことに失礼な話だが、当時そういう考え方があったことを示している。臆病な弟子たちに主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と優しく招いて下さっている。

 幽霊…痩せ衰えた死霊が帰って来る…本当だろうか。柳田國男の『遠野物語』に出てくる座敷童子のような存在が家に幸福をもたらし、守護霊として家の盛衰を司る、そんな霊が実在するのかどうか、霊感のない私には正直よく分からない。良い霊、悪い霊があるにせよ、主の霊に勝るものはないはずだ。死から復活された主の霊は私たちに完全な勝利を与え、悪霊の軍団レギオンでさえもひれ伏すほどに権威のあるお方なのだ。

 秋田にある、101回涙を流す奇跡の聖母像を見に行った人が写真に収めようとしたが、シャッターが動かなかったという。後日、霊感の強い?友人と共に行ってみると、今度はシャッターが作動して安堵したが、後で写真を見ると卍がたくさん写っていて驚いたという。この世では奇妙なことが起きて怖いと感じることもあるだろう。しかし主の霊にこそ畏れ、聴き従うべきである。なぜなら、聖霊に勝さる霊はないからだ。

 この世の霊を恐れる弱い私自身だが、常に復活の主の臨在を感じつつ平安を得て歩みたいものだ。