日本ホーリネス教団の戦争責任告白を以下抜粋してご紹介します。弾圧の経緯がよく分かります。(川﨑信二)↙
……戦前の私たちの教会は、宗教法案や宗教団体法案による国家の宗教への介入や、神社参拝の強要に対して、信仰の戦いの意志を明確にもっていました。
しかしそれにもかかわらず私たちの教会は、日本の軍国主義と、それを支えた天皇制については、それを批判することなく、むしろ支持をしました。教会は、当時の日本が犯した侵略という過ちにも気づかずに、天皇の名による戦争を「聖戦」と呼び、「皇室中心主義」や「敬神尊王」などと言って、その過ちを信仰の事柄と交錯し、支持をしました。そして、私たちの教会のアジア諸国への宣教は、宣教がその純粋な動機であったとは言え、その働きは日本の植民地政策に追随するものでありました。
さて、昭和十五年戦争下、私たちの教会は、治安維持法と宗教団体法によって不当に弾圧され、解散を余儀なくされました。そしてその信仰のゆえに命を奪われた牧師たち、裁判で命懸けの証言をして信仰を貫いた牧師たち、解散させられたために、社会的にも経済的にも困難な事態に陥りながらも信仰を守り続けた牧師家族や信徒たちのように、試練を乗り越えた先達の信仰の戦いによって、今日の私たちの教会があることは、神の守りの聖手が加わっていたためであると信ずるものです。
しかし、それ以前に私たちの教会は、リバイバル(信仰復興運動)の経験によって進展しつつも、その後、再臨信仰で躓き、教理の理解の相違から、同信の友と決別しました。そして、その後の宗教団体法案には反対の姿勢をもはや取り得ず、教会合同の流れに組み込まれていきました。しかも、それ以前から教会合同の気運があったために、宗教団体法を楯にした国家権力の圧力に屈したにもかかわらず、教会はそれを信仰的な決断であると理解しました。こうして成立した日本基督教団に、私達の教会も参加しました。またその過程において、同法によって天皇神格化を進める国家の圧力に屈し、再臨信仰に関する教義を変更しました。そして国策に従い、宮城遥拝や君が代斉唱などの国民儀礼や神社参拝を行い、さらに戦勝祈願、皇軍慰問献金、半島人徴兵制度実施感謝式の開催などの戦争協力を進めました。
また、弾圧に直面した時、私たちの教会は、自分たちの信仰が治安維持法に問われていることに気づきませんでした。それは、天皇を崇敬する愛国者を自負していたために、治安維持法のいう「国体の否定」に抵触するとは思っていなかったためであります。すなわち、キリスト教信仰の中に天皇制を受け入れていたのでした。そして、天皇に仕えるのが日本人の本分であるという、「国民生活」という文を機関紙に載せ、天皇制へとすりよってしまいました。
拘禁された牧師たちの中には、裁判のために、それまでのキリスト教信仰を清算し、祖先崇拝などをして日本人として生きると言う者たちや、神社参拝に積極的な姿勢を示す者たちもいました。また、私たちの教会は、再臨信仰が問題となっていることが分かった時、かつて分かれた同信の友の再臨信仰との違いを強調し、自らの身を守ろうとしました。それは、弾圧時に日本基督教団がホーリネス系教会を切り捨てたという自己保身の態度と変わらぬものでした。このような中で、信仰を捨てた信徒もおりました。……Ω
私たちは被害者あり加害者です。忘れないようにしたいものです。