「主イエスの憐れみ」 (マタイ26:46)
川﨑 信二
メジャーリーグの名実共にトッププレイヤーで年収も日本人のプロ野球選手とは桁違いの人気アスリート。
彼の信頼していた通訳がお金の管理もしていたようですが違法賭博に手を染めて負債を抱えたため勝手に彼の口座から多額のお金を引き出して窃盗の罪を犯してしまいました。
功名な手口で悪質性もある訳ですからそれなりの償い、刑に服すべきことは当然のことです。地上では許されないことがあります。またそこには依存性の課題もありますし一概には言及できない事柄でもあります。
一方、私はこの件を、主イエスとイスカリオテのユダとの関係に思いを巡らせてみた時に、「罪と赦し」ということを考えさせられました。
イエスは赦した。いつも近くにいた信頼のできるユダ。お金の管理やスケジュールのやりくり、正にマネージャー的な役割を一手に引き受けていた会計係のユダ。
彼は銀貨30枚でイエスを権力者の手に渡し、自分を愛してやまなかった恩師を汚れた金と引き換えに売り飛ばしてしまった。ユダは後悔し、いたたまれない思いが頂点に達し、自ら死を選びます(マタイ27:3)。
彼の死を知った主イエスは、彼の罪と死を引き受けて十字架に向かわれたのではないでしょうか。最後の晩餐でも既にそのお気持ちだったとは思いますが、ユダの死が迷うことなのないご決意となったのでは、と推察します。もちろん、そうでなくても神の計画は成就されますが‥‥。イエスは全ての人を赦し、この私の罪を赦して下さり、全ての人を救う方であることを、改めてこの出来事を通して思わされた次第です。