2024/2/24  週報メッセージ

「被告席に立つ神」(マタイ書 26:57-68)

 C.S.ルイスは「被告席に立つ神」というエッセー集の中でこのように述べています。「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもあるし、神様を信じることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方、その信じ方である。現代人は、まるで神様を、被告席に立たせているかのように取り扱っている。神様を被告席に立たせておいて、その神様に様々な質問をして答えさせている。これはどういうことなんですか?なぜこうなのですか?あなたは神として、一体何をしているのですか?それらの答えに、自分が納得している限りにおいて神様を信じている。しかし、それは信仰ではない。信仰とは、自分は被告席に立ち、神様を裁判官として、神様の問い掛けに答えていくことである。」まさにルイスの言う通りですが、人類はその初めから、神様を被告席に立たせて、神様に文句を言い、神様を責めています。

最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださったあの女が、木から取って与えたので食べました」と言って神を責めています。今朝の箇所では大祭司たちは、神の子主イエスを、実際に被告席に立たせて裁いています。大祭司たちは「今の生き方を変えなさい」と、悔い改めを迫る主イエスが邪魔だったのです。そんな彼らに対して主イエスは、たった一言語られました。「あなた方の神であるこの私が、今、ここに、こうして、被告席に立たされ、裁かれ、こぶしで叩かれ、唾をかけられている。それは、あなた方を救うためなのだ。あなた方が、その生き方を変えて、父なる神の愛の中に生きるようになるために、私はここに、こうして被告席に立っているのだ。」主イエスは、ただ一言話された後は、ただ黙々として、十字架へ道を歩まれました。受難節の時、主イエスのこの御心を、この愛を、この御苦しみを、心に刻みつつ歩んで行きたいと思います。(2/18 柏明史師説教)