2024/11/3 週報メッセージ

キリスト教的供養

川﨑 信二 

イエスが彼らの中にお立ちになった。そして“やすかれ”と言われた。

 (ルカ24:36口語訳)

「供養」を辞書でみると「死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること」とあります。冥福・・・つまり死者の「あの世での幸せ」を願い供えることです。その思い、その気持ちはとても尊いことです。その気持ちを具体的な供え物という形に表すことが供養なのだと思います。

キリスト教では「供養」や「冥福」という考え方がなく、死者への対応も違います。死者は神の領域に移されたので人の力ではどうにもならない。人間の行為(祈りや献げもの等)を死者に届けることは出来ないと考えます。

もう一つは、死者は既に幸福を得ているので、供養や冥福を祈る必要がないほどに満たされているという教えです。聖書の教えは死後の「復活」や「永遠の命」を説きます。

主イエスご自身が死から復活され、私たちもその復活に与ることができる、という希望です。「永眠」ではなく「復活」(Ⅰコリント15:50-55)です。目覚めて、起きて、そして生きるのです。感謝なことです。

ですから、死者は平安であり祝福されている故に、私たちは神を賛美するのです。

けれども、遺族の悲しみに配慮する必要があります。冒頭の御言葉は悲しんでいる弟子達に、復活された主が語られたものです。「やすかれ!」「あなたに平安があるように」。この主の言葉をもって遺族の悲しみに寄り添い、共に神を仰ぐのです。生かされている私たちが出来ることは神に祈ること、そして遺族の方々に復活の希望を伝えることです。死者に対しては、出来れば生前に心を尽くし、後悔することがないよう愛することが大切です。けれども死は突然訪れます。準備がないまま、悔いを残したまま天に送ってしまうことがあります。

キリスト教における「供養」とは(私の勝手な考えですが)、死者に対して生前に出来なかったことを神に委ね、キリストを通して愛する人に届けることではないでしょうか。

むしろ、死者が幸せであることを信じ、遺された家族が平安を得ることが大切です。「やすかれ!」との主の言葉にすがりつつ、残された日々を希望のうちに歩みたいものです。