2024/10/20 週報メッセージ

献身の志

川﨑 理子 

 イザヤ書6章には、神からイザヤが預言者として「召命」を受けた様子が記されています。

①いつだったのか。「ウジヤ王が死んだ年」(1)。南ユダの王ウジヤが死んだのは紀元前740年。ウジヤ王は神を畏れ敬う王でイザヤはウジヤ王を信頼していましたが、ウジヤの晩年は彼の高ぶりにより神に打たれてしまいます。

祭壇の香を自ら焚こうとして祭司に止められ皮膚病となったのです。それは祭司しかできない聖務を王の力で行おうとした越権行為でした。それまでの成功体験が自身を神格化させてしまったのでしょう。ウジヤ王が死ぬことは南ユダの滅亡を暗示していました。

②どのように召されたのか。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」圧倒的な主の姿と神の栄光が神殿満ちていました。更にセラフィム(天使的な存在)が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と神が聖であることを地震と煙によって現し、この圧倒的な聖なる姿を見せてイザヤを召したのです。

以前、洗足木曜日にお互いの足を洗うという体験をし、垢まみれ桶の水を見てその汚れに驚いたことがありました。それまで気づきませんでしたが私自身がいかに汚れた者であるかを知らされました。

イザヤの口にセラフィムが火を触れさせて「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と告げました。ウジヤ王は自分の高ぶりに気づきませんでした。神様は謙遜な者を召されます。いえ、圧倒的な聖によって謙虚にさせて従わせるのです。イザヤには罪の自覚がありました。

「誰を遣わすべきか」との主の声にイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えます。

「まさか私ではないでしょう。」と思っていたイザヤを神様は用いるのです。真の謙遜は拒否ではなく、積極的な信仰と従順です。

今私達は、圧倒的なイエス様の愛に触れています。この十字架の「愛」に感謝して応え、遣わされてまいりましょう。