「神の業が現れるために(2)」(ヨハネ 9:13-41)
ヨハネ書9章の前半は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒やす話でしたが、後半では、もっと大切なこと、すなわち霊の目が開かれる話が展開されていきます。
その日は安息日でした。ファリサイ人たちは、盲人の目を癒やしたことはともかく、安息日を守らなかったことに腹を立て、怒ったのです。ファリサイ派の人たちは、形式的な律法解釈にこだわり、心がかたくなになり、神の業(神の栄光)が見えなくなっていました。ヨハネ書は「安息日にとらわれて、神の業を喜ばない」ファリサイ派の人たちのかたくなな罪を指摘しているのです(41)。
一方、盲人だった人は、執拗な、誘導的な尋問を通して、逆に目が開かれるように、イエスに対する認識が「人」から「神の子」へと変わっていったのです。
苛立ったファリサイ人たちは、癒された盲人を外に追い出します。彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目にあうのです。しかしここから彼の新しい人生が始まるのです。
イエスは会堂から追放された盲人に会うために来られた。再会した盲人は、イエスを「主」と知り、ひざまずき、「主よ、信じます」と感謝を込めて信仰告白をしたのです。盲人だった人は肉体の目ではなく、霊の目も開かれ、主イエスに出会ったのです。
ヨハネ書は、七つのしるしの六番目のしるしを通して、霊の目が開かれることの大切さを強調しています。
私たちも霊的なことに対して無知で、鈍感で、盲目ではないでしょうか。いっそう謙遜になって目が開かれるよう祈っていきましょう。
(7/9 山本師説教から)