「注がれる愛」 (エレミヤ 31:20、ホセア11:8)
義なる神様は、ご自分に背き、異教の神々を礼拝するイスラエルの民を、裁かざるを得ません。そのことを怒り、そして深く嘆かれます。エレミヤ書は、1章からずっと、神様の怒りと裁きについて語っています。しかし31章に入りますと、今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが語られています。神様は、罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければならない。しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する神様の思いは、更に深まるというのです。「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(31章20節)。この「胸は高鳴り」という言葉を、ある英語の聖書は「my heart is broken」 と訳しています。裁かれる者ではなく、裁く神様の方が、胸が張り裂けるばかりに苦しまれているのです。神様は、罪を犯して裁きを受けなければならない弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。
ホセアという預言者も、イスラエルを裁かなくてはいけない神様の愛と苦しみを預言しました。ホセア書11章8節は、裁きの神が愛の神と戦われ、苦しまれているお姿を語っています。「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。「あなたに対する私の愛は、強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。心の向きを強引に変えて、裁きを愛に替えてくださったのです。この神様の愛と苦しみは、主イエスの十字架において、その頂点に達しています。主イエスの十字架は、神様が愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。十字架は、神様の怒りに神様の愛が勝利した場所なのです。十字架の苦しみ。それは、私たちのことを見捨てることができない、神様の激しいばかりの痛みなのです。
(5/21 柏明史師 説教)