「神の選びと愛」(神の愛⑦)(ローマ9:6-18)
私たちは、生まれてからこの方、数え切れない選択をしてきました。 「人は、毎日、小さなことから、大きなことまで1000個以上の決断をしている」「現在の私たちは過去の選択の結晶である」といわれているのです。
聖書の中には「選び」の言葉が多くあります。その「選び」が静かに、ときには激しく強調されています。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15)。 これは創造主である神の被造物である人間に対する絶対的な主権を表現しています。
いくつかの「選び」を振り返ってみましょう。なぜ神は、弱小のイスラエル民族を神の民として選ばれたのか、なぜ最初の子イシュマエルではなく、二番目の子イサクが神の子として選ばれたのか。なぜ長男エサウがしりぞけられ、不正の手段をつくした次男ヤコブが選ばれることになったのか。なぜ神は敵対者・迫害者であるパウロを選ばれたのでしょうか。
では私たちはどうでしょうか。なぜ私たちは、洗礼を受け、この教会の会員になり、教会に奉仕をしているのでしょう。私たちが真面目で、従順で、優しく、優秀だから選ばれたのでしょうか。これが『神の選び』の問題です。
私たちは、自らの意思と選択で自由に振舞っているように見えますが、実は、神さまの大きな、一方的なご計画の中で生かされているに過ぎないのです。「神の選び」は、信じる者にとっては、「愛」であり、「恵み」なのです。
私たちは、神さまのご計画、御心は知ることはできません。なぜあの人は選ばれ、この人は選ばれなかったのか、なぜ救われる者と救われない者とが分けられるのか。なぜ世の初めに神さまは救いにあずかる者を選ばれていたのか。選びの問題は、人間の理解、見識を、そして民族や国や時代の壁を越えているのです。
私たちは、なぜを追求することより、神さまから「選ばれた事実」「選ばれた恵み」「選びの愛」を感謝して歩みましょう。
(10/1 山本修一師説教)