「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」
(フィリピ3:5-14)
穏やかな、平和な元旦を迎えましたが、その夕方には能登半島で激しい地震、津波、火事、があり、翌日には羽田空港・衝突事故がありました。波乱と恐怖の一年の幕開けなのでしょうか。それとも信仰と祈りに立って歩むべしとの警醒でしょうか。
今年の標語聖句は、フィリピ書3章8節からきらめくようなすばらしいみ言葉が与えられました。パウロはどのような状況でこの信仰告白をしたのでしょうか。それは不潔な、暗い、冷たい牢獄の中でした。鞭で打たれた痛みでうずきました。いつ裁判で死刑にされかねない不安もありました。にもかかわらずパウロは、「喜び」を強調するフィリピ人への手紙を書いたのです。
パウロはこの手紙では、ただ単に「イエスを知ること」だけでなく、「イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」を伝えようとしています。
ではそれはどういう意味でしょうか。なぜ「キリストを知る」ことが、そんなにすばらしいのでしょうか。
パウロはイエスに出会って(知って)から、価値観が転換し、これまで大切にしてきたこの世の利益が、無価値に思われるようになったのです。
ところで「イエスを知る」とは、知識としての「知」ではなく、神を「あなた」と呼び、神に「私は」と応える人格的な関係のことをいいます。この人格的な交わりによって、私にとって神がかけがえのない方となり、一緒にいることを喜ぶ関係となるのです。そのような神との交わりが「永遠の命」(ヨハネ17:3)につながるのです。
別の言い方をすれば、「イエスを知る」とは、「私たちに何をしてくださったのか」を知ることです。この世に降臨されたこと、十字架に架けられたこと、三日目に復活されたこと…などの真理をとことんまで知ること、知り尽くすことです。 (1/7 山本師)