クリスマスの礼拝を考える
朝位 フミ子
クリスマスは私たちにとって忙しい時です。私たちはそのような現実の中で、毎年決められたことをこなすのに精いっぱいで、本当にクリスマスを祝うというのはどういうことなのかをあらためて考えることができなくなっているかもしれません。そうだとするならば、この機会にちょっと立ち止まって、私たちのクリスマスの礼拝のあり方を考えてみたいですね。
ご存じのようにクリスマス成立の事情は複雑です。クリスマスが祝われるようになったのは4世紀になってからで、12月25日も、そもそもは冬至に行われていたローマの太陽神の祭りであったものを、教会が強引にその日を降誕祭にしてしまったのです。そのためにクリスマスは主に冬至に関わるヨーロッパ各地の民族的な祭りに起源をもつ習慣や伝統を受け継ぐことになりました。教会はそのような習慣を聖書的に再解釈しようとしてきましたが、クリスマスがもつ祝祭的な雰囲気がそうした各地の祭りから来ていることは明らかです。私たちは必ずしもそのような祝祭的な要素を排除する必要はないでしょう。むしろ、世俗的な面をもっているが故に、クリスマスは多くの人が共に喜ぶことのできる楽しい祭りになったのかもしれません。
キリスト者としてクリスマスを祝う私たちは、ただ雰囲気に流されるのではなく、クリスマスにおいて本当に大切な事柄が何であるかを問い続けなければいけません。主の降誕を祝うこの祭りが英語圏でキリストの礼拝と呼ばれるようになったのです。私たちは何よりも礼拝において主のご降誕を祝うのです。そうであるならば、礼拝そのものが本当に喜びに満ちたものになるよう努力をしたいと思います。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」(ルカによる福音書2章10節)