2021/11/28 週報メッセージ

救いとは何か                                                        

朝位 真士  

  今回は、ジョン・ウェスレーの説教集にある島隆三牧師(前東京聖書学校校長・東調布教会牧師)の論文をご紹介させていただきます。

 聖書においても、救いは広い意味で用いられる重要なことばですが、キリスト教において大切なことは、救いが何よりも神との関係において考えられているということです。「苦しい時の神頼み」式の信仰は、例えば病気が治ったら、問題が解決したら、もうそれでよい、「私は救われた」ということでしょう。しかし、聖書は、そういう人にも「あなたは本当に救われていますか」と問いかけるのです。つまり、救いが人間本位でなく、神本位に考えられているということです。人は誰でも、生まれつき自分本位、自己中心ですから、「自分が救われたと思ったら、それでいい」と開き直るような所がありますが、聖書はそういう自己中心の人間を「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)と呼んでいます。「怒りの子」というのは、神の怒り(審き)の対象となるという意味で、そのままでは神の審きによって滅んでしまうということです。私たちは何よりもこの神の怒りから救われねばなりません。

 結論を急ぎましょう。救いも、神が提供して下さっているということです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、自己中心でどうしようもない私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをお与え下さり、その十字架の死と復活により救いの道を備えて下さったのです。ここにキリスト教の救いの根源があり、私たちは、その神の救いをただ信じて、お受けするほかに救いはないのです。エフェソ2・8にある通り、私たちは、ただイエス・キリストを信ずることによって神の怒りから救われるのです。『キリスト教神学辞典』の「救い」の項の一節を引用すると「この救いの経験の特徴を要約すれば、人間がそれによってその罪深い自我から生命の新しさと充満へと解放される神の恵みの行為のことである。すなわち救いとは、神の意思とわざとによって、人間のうちにまた人間のためになされる何かである。」「生命の新しさと充満へと解放される」という点を強調したのがジョン・ウェスレーです。