2015/6/21 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案       
                                                                                                                         朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象ー宣教(神の和解)の対象はひと言で言えば「罪人」ですが、わたしたち日本の教会にとっては、さらに具体的にはどのような人たちなのでしょうか。ここでは基本的なことだけを考察します。まず一般的に、福音の前での現代人の特徴の一つであるその「世俗性」(または「非宗教性」)について、次に、日本においてなぜ福音を信ずる者が少数であるかについて考えます。
 1.神なしに生きようとする現代人 ①宣教に当たっては、罪と罪の赦しの宣告をあいまいにすることはできません。神は教会の宣教を通し、人類に福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰ることを求めておられます。それゆえ宣教とは、この世の人々に悔い改めと信仰を勧めることです。(マコ1・14~15、2コリ5・20、エゼ33・11、黙示3・20)
 ②罪とは福音の対象である人間が置かれている危機的状況そのものです。それは第一に、神との正常な関係の破綻です。その結果、人間は神との交わりと御国の希望を失い、「故郷喪失」に陥っています。現実的にも、生きる意味と喜びを失い、不安と思い煩いと虚しさの中で自分の消滅(死)におびえています。罪とは第二に、その結果として、あらゆる人間同士の交わりにおいて、各々が自分の利益を追求し、互いに敵意を抱き合い、この世界に愛と平和が失われていることです。その意味においても、人間は自分の故郷や家庭を失っています。罪とは第三に、自分自身との関係のゆがみです。神との交わりを失い、隣人との関係を損っている人間は、自分自身を正しく認識し、愛し、重んじることができません。(2コリ5・20、創3・24、同3・19、同4・12、同4・17、同11・9、ヘブ11・16、マコ12・29~30)
 ③人間が神に背いた堕罪の出来事は、今日、世界的な広がりで進展している「神は要らない(神は死んだ)」という「世俗化の状況」として捉えることができます。つづく。