「改訂宣教基礎理論」二次草案 朝位 真士
引き続き「宣教の内容」について記載します。宣教の内容は、神がご自身に背いたわたしたちをなおみもとにお招きくださる「和解の福音」です。福音においては、まず第一に、わたしたちの罪がただキリストの義によってのみ赦されたこと、したがって、その義はただ信仰のみによって与えられることが語られなければなりません。ただし、この罪人の義認は、同時に聖化と召命とを必然的に生み出すものであることが、福音の中には含まれています。
(1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し
(1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し
①宣教内容には「日本基督教団信仰告白」との一致が求められます。したがって、神学校には日本基督教団信仰告白に基づく伝道者養成・神学教育を行う責任があります。
②福音の内容は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3・16)という御言葉に要約されます。この福音は、今この歴史の中ですでに現実となっています。罪人が神と和解させられ、礼拝と賛美へと招かれているからです。(ロマ5・6~
②福音の内容は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3・16)という御言葉に要約されます。この福音は、今この歴史の中ですでに現実となっています。罪人が神と和解させられ、礼拝と賛美へと招かれているからです。(ロマ5・6~
11、2コリ5・18~21)
③人間は自分を神としようとして罪を犯し、神との平和を失いました。神は聖なるお方ですから、本来ならば、人間を罪を見過ごすことがおできになりません。罪人である人間は聖なる神と対立しており、神が義であるか、それとも人間が義であるか、言い換えれば、神が滅びるか、それとも神が人間を滅ぼすか、どちらか一つでしかありえない由々しい事態が生じたことになります。(ヨシュ24・19~20、イザ6・1~5、同57・15)
④しかし、人間は罪の結果としての悲惨さのただ中にいながら、それが自分の罪のゆえであるとは認めず、他者に責任を負わせようとします。それゆえまた、自分の悲惨さについての認識もきわめて不十分です。しかし実は、自分がなお生かされているのは、憐れみ深い神の限りない忍耐と寛容によることなのです。(創3・5、同3・12~13、ロマ2・4、同6・23)
③人間は自分を神としようとして罪を犯し、神との平和を失いました。神は聖なるお方ですから、本来ならば、人間を罪を見過ごすことがおできになりません。罪人である人間は聖なる神と対立しており、神が義であるか、それとも人間が義であるか、言い換えれば、神が滅びるか、それとも神が人間を滅ぼすか、どちらか一つでしかありえない由々しい事態が生じたことになります。(ヨシュ24・19~20、イザ6・1~5、同57・15)
④しかし、人間は罪の結果としての悲惨さのただ中にいながら、それが自分の罪のゆえであるとは認めず、他者に責任を負わせようとします。それゆえまた、自分の悲惨さについての認識もきわめて不十分です。しかし実は、自分がなお生かされているのは、憐れみ深い神の限りない忍耐と寛容によることなのです。(創3・5、同3・12~13、ロマ2・4、同6・23)