「改訂宣教基礎理論」二次草案
朝位 真士
前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)
朝位 真士
前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)