「改訂宣教基礎理論」二次草案
朝位 真士
前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
(一)神の永遠のご意志 ①神は教会を永遠の昔より愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)さらに神は、この教会を通し、罪人をご自身と和解させるために、救いのご計画を立て、世の終わりまで、救済史に導かれます。(2コリ5・19、ローマ11・33~36)
朝位 真士
前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
(一)神の永遠のご意志 ①神は教会を永遠の昔より愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)さらに神は、この教会を通し、罪人をご自身と和解させるために、救いのご計画を立て、世の終わりまで、救済史に導かれます。(2コリ5・19、ローマ11・33~36)
②宣教がそもそも可能であるのは、神が人間を一方的な「恵みの選び」によって救いへと選ばれたからです。神の選びは、人間の業や功績によってではなく、神ご自身の永遠に変わることのないご意志によるものです。神の選びが確かであるゆえに、わたしたちは自分の救いに関して恵みの選びが成就することを確信し、それと同じように隣人の救いを熱望し忍耐強く祈り、かつ伝道することができます。(エフェ1・4~6、同2・4~6、同1・10、ヨハ15・16)
③また、わたしたちは伝道する時、実際に御言葉を語っておられるのは、わたしたちではなく、神の霊であると知ることによって、力づけられます。(マタ10・20)
④人間は「神のかたち」に造られていますので(創1・27)、神と出会うまで、平安を得ることができません。神に愛され、網を愛するとき、わたしたちはさらに、神がお与えくださった自分の隣人や家族、職業などを愛するようになり、真に幸いな人生を歩むようになります。人生とは、そのことを発見するための旅路であるとも言えます。(ヘブ11・13~16)
⑤同様に、世界史の究極の意義は、恵みの選びが成就することです。それゆえ、世界史の終わりは、救済史の完成です。そのとき、新しい天と新しい地が現れ、わたしたちは朽ちないものへと変えられ、永遠に神を賛美するでしょう。(エフェ1・11~12、1コリ15・50~55、黙21・1~4)