2012/1/29 週報メッセージ

   イエスの受洗
                                                                                                            朝位 真士
  「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け」(ルカ3・21)
 イエスの受洗の記事はマタイ3章13~27節、マルコ1章9~11節、ルカ3章21~22節に並行記事として記されている。イエスがバプテスマを受けられた理由と意味があった。
 第一に、イエスのバプテスマは御自分をその民の罪の償いのための供え物とすることを意味していた(ローマ3・24~25、5・8、イザヤ53等)。後にイエスはそのことを御自分の口から弟子たちに語られた。
 第二に、イエスのバプテスマはイエスが大祭司として民の救いのためのとりなしを公に開始することであった(ヘブル5・5~7)。イスラエル人がヨハネからバプテスマを受けていた背後には、彼らがその民族の血にもかかわらず神との関係のない者、神に受け入れられない者であるという現状を明らかにする。しかしイエスのバプテスマにおいては、その公生涯がスタートする時点で、神がイエスに「愛する子」「わたしはあなたを喜ぶ」と声をかけて、イエスが神の子であると認める天の声があった。
 なぜイエス・キリストがバプテスマを受けられたかについて、ルカは何も説明していない。イエスは罪なき神の子であるのだから、聖霊はイエス・キリストをそのように導いたのである。主イエスがバプテスマをお受けになった理由は、もちろん主イエス個人に悔い改めが必要であったからではない。それはバプテスマのヨハネのバプテスマが神から来たものであることが公に認められたことの表現であり、かつ御自分を罪を悔い改めるべきイスラエル人のひとりとされたことの表現であり、同時に十字架の上での死に向かっての公の歩みを始められたことの宣言でもあった。