「神の奥義」2021・2・14説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント2・6~16節を通して聖書を学んで行きましょう。この2・6~10節はパウロの深い教えである神の奥義。11~16節は神の奥義は神の霊によってのみ知るうること。神の奥義は聖霊の啓示によって初めて知ることが出来ます。(10)。(生まれながらの人)すなわちまだ生まれ変わっていない人は、聖霊を受けることが出来ませんので、神の奥義を理解することが出来ません。(14)。それゆえ、神の奥義である十字架が、彼らには愚かなものと見えるのであります。私達のうけた聖霊は「知恵と啓示との霊」(エペソ1・17)、これが与えられる1つの目的は、(神から賜った恵みを悟るためであります(12,ヨハネ16・13~15)。神の奥義は人の(目がまだ見えず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことで)あるが(9)、その奥義が聖霊によって示される。こうして聖霊に示されてそれを理解した者は、それを説くにもまた、(御霊の教える言葉を持って)説かなければならない。(人間の知恵が教える言葉)で神の深さを説明するわけにはいきません。(13)。これが、福音を説く御霊の言葉である聖書の言葉を用い、また御霊によって与えられるメツセージを語らなければならない理由であります。

1コリ2・6~16節を見て下さい。キリストに現れた神の深い真理は聖霊によって、初めて明らかにされます。人知をどのように絞っても、神の深い真理に達することは出来ません。人間は聖霊を受けずして、イエスを救い主と言うことは出来ません。(1コリ12。・3)p315

この「御霊」は「神からの霊」(3・12)であり、人の内に宿る「神の霊」(ローマ8・9)。であり、すべてのことを、そしてその最も深い神の性質や計画を知りつくして、人を教えることが出来る。だから使徒は、人々がこの知恵をいただくために、御霊を受けるように絶えず祈ったのであります。(12・8,エペ1・17,コロサイ1・9)。神に関することは、神御自身の霊によらなければわからない。だから、わたしたちが聖書の言葉を、どんなに文法的に解釈したり、言語学的に研究しても、それだけではその本来の意味はよく納得されない。聖書は神の言葉である。だから、人知だけで探求しても、到底深い真理は理解されない。福音の真理は、霊的真理である故に、霊的方法によらなければ理解されない。と同じように、この福音を宣べ伝える際にもこの世の知恵が与える言葉によるのではなく、専ら霊の言葉によらなければならないことは当然であります。9節の言葉はイザヤ40・13引用であります。p1126キリストの思いをもって、すべてのことを律していくべきであります。そうすれば、教会の中で、他人を批判して悪く言って罵ったり、党派をつくって争ったりできるはずはありません。

結び

もう1度1コリ2・6~16節を見て下さい。神の奥義は聖霊によって啓示されて初めて知ることが出来る(10)。生まれながらの人間は、神の御霊(11)を受けていないので、神の奥義を知ることが出来ません。ベタニヤのラザロは死んで4日間も墓の中に置かれていました。彼は神に命を与えられて初めて生き返ることが出来ました(ヨハネ11章)p188~189

それと同じように、私達も生まれたままでは霊的に死んでいます。神に聖霊を与えられて初めて霊的に生かされ、神のことが分かるようになります。人間はどんなに知恵や知識があっても、またどんなに努力しても、それだけでは神の真理に達することは出来ません。聖霊を受けなければだれもイエスをキリストと告白することは出来ないのであります(12・3)p315。聖霊は神からの霊であり、召された者の内に宿る神の御霊であります。私達召された者が受けた霊は、「神を知るための知恵と啓示の御霊」(エペ1・17p353)であります。また、御霊が与えられる目的の1つは「恵みによって神から賜ったものを、私たちが知るため」(1コリ2・12)ヨハネ6・13~15p200である。1コリ2・13、2テモ3・16p394

神の奥義は聖霊に導かれないと理解できないことがわかりました。クリスチャンは皆神の聖霊を受けています。しかし神を信じなくなると聖霊はその人の心に宿りません。絶えず聖霊に満たされなくてはなりません。その方法の1つはまず1日の時間を決めて聖書を拝読し、祈り、主の奉仕に励み、献金を献げることです。勿論経済的赦されない人は奉仕祈りや教会の為に奉仕、また諸集会にできるだけ出席する。今はコロナで出席が制約されています。自分の与えられた賜物を主の御用に活かすことです。