讃美歌354番 1 かいぬしわが主よ まようわれらに 若草の野辺に 導きたまえ 我らを守りて 養いたまえ 我らは主のもの 主にあがなわる 1 みいつくしみをば 我らに満たし 今よりみ旨を なさしめたまえ 我らをあわれむ み恵みふかし 我らは主のもの 主をのみ愛す
朝位真士
序
今日は1コリント7・25~40節を通して聖書を学んで行きましょう。この7・25~28節は召され時の身分にとどまるべき事。29~35節このような意見を生じるパウロの意見。36~38節処女である娘を持つ父に対する注意。39~40節寡婦の再婚について。と分類することができます。パウロは結婚に関して、キリストの再臨がすでに近づき、世の終わりの危機が迫っているから、結婚している者はそのままの状態におり、していない者は結婚しないでいる方が良いという。つまり今の状態を保つようにと勧めているのである。パウロの現状維持の勧めとして次の3つのことが挙げられます。
本
1つは、 1コリント7・25~40節を見て下さい。とくに25~35節に3つのことが述べられていま結婚は苦難に種となるからであります。28節を見て下さい。2つは時が縮まっています。29から31節を見て下さい。世の終末は間近であります。それゆえキリスト者はいたずらに地上生活に執着してはならない。結婚も、商売も、社会生活も、悲しみも、喜びも、これらすべてのものは過ぎ去る一時的なもので、ある。天に国籍を持つキリスト者は(フィリプ3・20)、こうした地上の生活に心を奪われて永遠なるものを忘れてはならないのであります。3つは、主を喜ばせるためであります。(32~34)とくに思い煩わないで欲しいといつています。つまるとこる、主を第一とする生活を送るのは独身でいるのが良いとゆうのがパウロの主張です。次に36~40節をもう1度見て下さい。ここではただ主にあってということが語られています。しつかりと自分の信仰的立場を表明した上で、信仰を保持できるようにことを運ばなくてはなりません。このパウロの意見は、彼の意見として述べられたもので、決して勝手なものではなく、神の霊に導かれたものであるという信念があった。
キリスト者にとって結婚は人生最大の目的ではありません。キリスト者は、結婚することによって独身でいるよりも多く主に栄光を帰することが出来る場合に結婚するのであります。結婚することによって主にたいする奉仕を少しでも支障がでる可能性があれば結婚すべきではない。その厳しさを是非私達の内にも育てたいのであります。救われて神のものとなったキリスト者どうしの結婚は、互いに協力し合い、その生活をもって神の栄光を現わし、信仰を次の世代に受け継ぐ者でなければならないと思います。それゆえキリスト者の結婚は、結婚それ自体ではなく、結婚によって築かれた家庭を神の栄光にために用いることが究極の目的なのです。したがって結婚は、1人で神を讃美していた人が、2人で、神を讃美するようになることであります。次の世代の誕生によって今度は親子で神を讃美するようになることであります。キリスト者にとっては、親子で、神を讃美することが子供も誕生の第1の目的であることも大切であります。
結び
今日はこの7章全体のまとめとして結婚問題について「思い煩わないでほしい」とパウロは結論づけています。とくに結婚問題。これは私たちの信仰生活に大いに影響があります。結婚されたことによって神様の御用が出来た方もおられますし、また結婚されたことによって信仰から離れたかたも多くおられます。それは個々人の主との関係が大切だと思います。勿論、1時的に信仰から離れた方も晩年教会に戻られて、信仰復興されたかたもおられます。全ては神様にお任せすることが必要です。信者の生活は、ひたすら主を喜ばせ、主に仕えてゆく者でなければならない。結婚されている方は往々にして、家庭を第一にするが余り、とくにこの世の様々なことに思い煩うのであります。そうして、ややもすると、信仰と家庭が両立しなくなるおそれがあります。そして「心が分かれる」、そこに精神の統一がなくなり、思い乱れてきます。マタイ6・25~34節p10マタイ11・28~30節p21、フィリピ4・6~7p366を見て下さい。またルカ10・41~42節p127ご覧ください。
1コリント7・39~40節を見て下さい。バークレーは「ギリシアの賢者プルタルコスは「結婚は夫婦が同じ宗教を信じていなければ、幸福なものにはなりえない」と。最高の愛は、2人が愛し合い、その愛がキリストへの共通の愛によってきよめられたときに、実現されるのだ。そのとき2人は単に生活を共にするだけでなく、祈りを共にするからであり、また生活と愛とが結びついて絶えざる礼拝となるからです。」と語っています。