朝位真士
序
今日は1コリント4・6~13節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの4章全体を主の忠実であるべき事。真の裁き、言葉よりも力と語っています。そして、今日の6節は聖言を超えて人を評価すべきでないこと。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して述べた使徒の謙遜と忍耐の模範を語っています。
本
1コリント4・6~13節を見て下さい。この4章の1~21節までは神の管理人としてパウロは、自分のことをさきに建築士として、コリント教会の関係を説明しました。ここで、さらに、自分を神の管理人としてコリントの人々に語っています。コリントの人たちは、自らの知恵や知識を誇って、傲慢不遜であります。人の才能も能力も、全て神から与えられたものにほかならないのであります。もし誇るならば、神こそ誇るべきであります。私達は、そうした賜物にゆえに、いよいよ謙遜となって、感謝するべきであります。彼らは自分で、自分たちは、富み栄えていると思って、誇りの座に安住している。そして、伝道者を見下してかれこれと詮議だてています。10節から13節を見て下さい。伝道者もまた衆人環視の中で、悪戦苦闘しています。そしてまさに死に瀕しています。それなのに、信徒はいっこうにこれを助け、これを救い出そうとはしない。コリント教会の現状はそうであったのであります。パウロは、元々博学多識の人でありました(使徒6・24)。しかし、愚かに見える福音のために(12・23)、あえて愚かになった。単純卒直にキリストの十字架の福音を語るためであった。しかしコリント人は、福音を哲学と雄弁によらせようとした。彼らは、キリストにあっても、なお賢い者であった。この「賢い者」という字には、利口者、ぬかりのない知恵者(この世とうまく手を握る)という意味であります。彼らは自信家で、自負心に強く、この世に対しても自己心が強く自分の地位を誇示していた。パウロは、この世にあって何らの名誉もなかった。いや、かえって侮られ、罵られることが常であった。11節をもう1度見て下さい。第2コリント11章には詳細に記されています。ここに第1に生活の苦しさである。衣に窮し、食に困り、しかも定まった住居もなかった。第2に、自分の手でもってする働きの苦労であった。彼はテントをつくる職を身につけていた。第3に種々の迫害である。しかも、その迫害の中で、彼は迫害する者を祝福した。すなわち、はずかしめられても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられても優しい言葉をかけた。こうして忍従の生活は、排斥を受ける1つの原因となった、この世においてはちりのように、人間のくずのようにあしらわれてきたというのである。こうした鋭くまた哀調を帯びたパウロの文字に接すると、私達は、自分の胸をえぐられる思がします。誠に教会における問題は深刻であります。
結び
もう1度1コリント4・6~13節を見て下さい。
元来信仰は人を謙虚にするはずであります。しかし現実はなかなか厳しく、特に信仰に燃えている時ほど高慢になる危険があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信になり、やがて自尊心となって高ぶりに変わるのであります。それは多くの場合他人への裁きとなって現れます。特に多いのは牧師や役員に対する非難であります。牧師や役員は理想的な人物であるべきだというだという期待も手伝って、牧師、役員の1挙1動および一言一句が教会員の裁きに対象にされてしまします。
今日のテーマは「キリストの福音を語る」です。福音のメッセージを語るには2つの方法があると思います。1つは聖書を通してイエス・キリストの十字架と復活、この聖書のメツセージは教会に来られた方は誰でも語れると思います。もう1つはその方の生き様を通して福音を語る。これがある意味で難しい事だと思います。俗にいう教会の顔と、教会を出てからの顔。これが一番難しい事です。何故クリスチャンが少ないかは、勿論いろいろな原因があると思いますが、教会顔と世間顔の極端な区別です。わたしは信仰生活60年になりますがいろいろなクリスチャンの方々や牧師・信徒の方々を見てきました。私は決して模範的牧師、クリスチャンではありません。欠けのあるものですが、もし感謝出来ることがあればそれは毎日聖書を読み、祈り、黙想し、誰かにキリストの福音をなるべくかたるようにしています。この2021年使徒181~11節が与えられて特に「この町には私の民が大勢いる」という御言葉を信じて家族友人知己の方々にイエス・キリストの福音を証しようではありませんか。特にコロナウイルス流行のこの時多くの人々が不安、恐れに悩んでいる方にはチャンスだと思います。