「神の国は義と平和と喜び」2020・10・18説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ14・13~23節を通して聖書を学びましょう。このローマ14章は信仰の弱い者に対する態度。自由と愛の道。意見より愛。分解(信仰の弱い者に対する愛の態度)1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~12ひとりびとり皆キリストのさばきの座の前にたつことを思って、人を裁くべきでないこと。13~21食べ物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)22~23信仰によって行うべきこと。

ローマ14・13~23節を見て下さい。ここでは一口で語ると信仰生活の中心と周辺を語っています。この14・13~18節は愛の配慮が語られています。食物に関して、パウロは、もう1度、これを取り上げて、基本的な考え方をうちだしています。彼は、消極的な面と、積極的な面との二面を語るのであります。消極的な面について、彼は妨げになる物や、つまづきとなる物を兄弟に前に置かないように「決意」するのだという。しかし、こうすることの動機は、互いにさばき合う事の原因となるものを除きさるということであります。神が、命じておられないことは、お互い愛によって決定すべきことであります。食べ物のことで、愛が失われたら、これは重大なことであります。積極的な面については、パウロは、私は、主イエスにあって知りかつ確信しているといって、それ自体、汚れているものは1つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのであると述べた根本問題は何か。「食べ物」と「わたし」の関係ではなくて、「キリスト」と「わたし」の関係であります。キリストこそ、信仰に強い者のためにも、弱い者にためにも、死んで下さったのであります。教会の中で、キリストから無縁のことであれば、それはもはや教会ではなくなる。それは社交団体か、禁欲修練場となるでありましょう。しかし、教会史は、キリストの教会がそのあるべき姿を失って、教会が老化現象を起こすのは、キリストから目を、他に向けるときであることは、実例の示していることであります。教会は、三位一体の神との出会いの場所であって、「あなた」と「わたし」と言う生命的な関係を持ち続けるところであります。

ローマ14・17節を見て下さい今日はこのところから題をつけました「神の国は、飲食ではなく、義と、平和と聖霊における喜びである」(口語訳)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(新共同訳)。とパウロがいう意味は、神の国は、キリストのみという一本の線に繋がれているということであります。キリストなしには、義も平和も、聖霊における喜びも考えられないからであります。わたしたちの全身全霊をキリストに向けようとするとき、私達の内に容易ならぬ抵抗を覚えます。これに打ち勝つ者は、「わたし」ではなく、「キリスト」であります。キリストはこのような抵抗の中は御自身を投げ込みたもうたのであります。そしてこの抵抗の中で、死ぬ事によって、抵抗を無力にしたもうのであります。否、その抵抗を滅ぼしたもたのであります。だからキリストの勝利は、全力をあげた悪魔の抵抗のただ中で、得られたものであります。キリストの勝利の中で、キリスト者の奉仕の生活は、営まれるのであります。14・19~23節をみてください。ここでは信仰の筋が語られています。中心的な事、根本的な事が、力強く推進されるならば、周辺の問題は、中心部には入って来ない。神と関係のある中心問題を第一に考えることが、重要であります。「わたし」の生活川筋の流れを、激しくすることによって、川岸によどんでいる沈殿物は、押し流されてしまう。信仰生活の中で得た知恵によって、肉食や、飲酒や、その他、弱い兄弟をつまづかせないように、また駄目にしないようにすることは、勿論良いことであります。ただし、この信仰の体験を他人に向けないで、自分自身に向ける事が大切であります。信仰の決断こそ、日常生活において持たれるキリスト者の態度であります。

結び

もう1度ローマ14・17節を見て下さい。ここで信仰生活の基本姿勢を提示しています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」義とは神との正しい関係であります。「平和」とは人と人との関係が愛に根ざしして完成した状態であります。「喜び」とは自分が神と隣人と愛で結ばれる時に味わう思いであります。主イエス・キリストは最大の掟として、神と人との縦の関係(神への愛の関係)と隣人同志の横の関係(隣人愛の関係)という「人生の座標軸」の確立を教えられました(マルコ12・28~34)p87ここには神の国の基本の姿が示されています。パウロもここで、神の国の基本的な生き方から、教会生活の具体的なあり方を示す。