「憐れみの器」2020・7・26説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・19~29節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの箇所を9・19~23信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。24~29このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語りつています。ローマ9章においてパウロは、神の選民であるユダヤ人が、なぜ神の子キリストの福音を受け入れず、選民の資格を失ったように見えるのかという問題を取り上げてきました。これに対するパウロの第一の答えは、ユダヤ人を選民したのは、彼らの能力や素質ではなく、ただ神の憐れみであったという事でした。ですから、人間を神の民とするのもしないのも、神の自由であり、「9・18」。このように、神の恵みが自由な恵みであることを強調したのであります。これに対して人々が強く反論するであろうと予想して、その反論に対する答えを書きしるしたのが、今日の箇所であります。

本 ローマ9・19~29節を見て下さい。ここに神の真意が語れています。神は、人間を悪魔の手から解放するために、悪魔的力に御子をゆだね、そのことによって、悪魔を克服したもう。神の御計画には、一種の循環運動のようなものがある。しかし、知恵輪のように、この循環運動の中には、私達にわからない部分が含まれています。神が悪の力にふりまわされているのである。その「分からない部分」だけを見ていると、それが神に対する疑問となってくるのである。19節を見て下さい。愛と憐れみの神の手になるものが、神から不正な扱いを受けるはずがない。造られた者は、神に反逆しているのだから、当然、全被造物は、神の怒りに値するものである。それにもかかわらず、20~23節を見て下さい。そのことは神の憐れみの証拠ではないでしょうか。そのうえ、それらの「あわれみの器」のみならず、他の、怒りの器さえ、救いの恩恵を被る事が出来れば、神の憐れみは、一層あきらかになるでしょう。怒りの器に対し、「憐れみの器」が神によって前もつて用意されているという、御計画に従って、選びによる召しが、「ユダヤ人」の中だけでなく、他民族の中でも、着々と実行されたのである。パウロは、神のなされる悪の力克服の事実を聖書によって、裏づけた。ホセヤとイザヤからの引用句が、肩をならべるのである。ホセア2・25,2・1、イザヤ10・22―23、1・9の70人訳からの引用(ローマ9・25―29)。異邦人が神の民にくわえられることは、旧約の時代からすでに神の救いの計画と展望の中にあったとパウロは語っています。」ホセアの言葉とイザヤの言葉とだけでも、神は、どれほど、手際よく、悪のちからを克服し、悪の力の奴隷であった人間の身分を変えて、神の子とされるかということを的確に表現したホセアの言葉に注意することを忘れないようにしたい者です。キリストの救いのよきおとずれが、ここにきかれる。救いとは、神のみまえにおける身分の変化である。神への反逆者が、神の子となることである。奴隷と神の子とでは、身分の上に天と地との相違がある。神は、人類を滅亡にみちびくことを考えておいでにならないことをハッキリ知ることが出来る。

結び

イスラエルの歴史は、神の選びが実現されていく歴史である。また、それは滅びに定められた者の実現の歴史である。しかしそれ以上に、滅びに定められた者に対する神の深く大きな忍耐と寛容の歴史でもあり、やがて異邦人が憐れみの器として登場することを促す歴史でもあった。そして神が憐れみの器として「私達」、すなわち教会をユダヤ人と異邦人が混じり合ったものとしてお召しになるとき、神は約束を実現する。神は、ユダヤ民族だけでなく、広く世界の民の中から御自身の民を集めてくださる。教会は、新しいイスラエルであり、真のイスラエルとなるのである。人間おかれている条件の根本が、神に造られた存在ということであります。この点では人間も陶器も変わらないのであります。創世記2章には神が土で人間を造り、それに命の息を吹き入れられると生きた人間になったと言われています。人間あり陶器と同じように土のもろさをもっており、土より出でて土に帰ります。ただその土の器に神が命と恵みを注いでくださるゆえに、万物の霊長として立っているのであります。従って我々は、被造物としての謙虚さを持って、神によって造られ、置かれている条件を受け入れて、神に仕え、神に応えて生きる事が大事であります。