戦後70年目を覚えての礼拝

イメージ 1写真:K/Kさん提供
 本日は幾分しのぎやすい暑さの1日でした。
 このところの暑さに関しては、記録的という言葉を何度も耳にしましたが、今日すこし穏やかな暑さの中で、日曜日の礼拝を守ることができ、感謝です。
 
 70年前に広島、長崎に原爆が投下された日を覚えながら、大きな犠牲の上に現在の平和があることを改めて認識するとともに、この平和を守ることを大切しなければならないこと、主にある平和が世界に訪れることを祈りました。
 私たちは、平和の使者として、主から遣わされているとも言えますから、日々、心にシャローム、平和であれという思いで、生活をしていかなければと強く思います。
 さて、 今日の聖書のお話しは、「律法学者とやもめの信仰」といテーマでの内容でした。(マルコによる福音書第12章38節~44節)
 律法学者は、特権階級の衣を身にまとい、その社会的地位からも人から敬われたということですが、問題は、彼ら
がそのことを好み、執着さえするよになり、自我に生きる人間のエゴともいうべき醜い現実を持っていたということです。そこを、イエス様は、厳しく指摘され、非難されたということです。
 私たちも、そのように弱い一面を持ち合わせており、人の上に立つ者は、ともすると、執着してしまう傾向を持っておりますね。
 律法学者とは対照的な存在として、「やもめ」が取り上げられていて、このやもめの話を通し、献金することの真の意味を教えていただきました。
 金持ちたちは、多額のお金を神殿において献金箱に入れましたが、その金額は、彼らにとってなんら彼らの生活に影響を与えるようなものではありませんでした。次に貧しいやもめが神殿にやってきて、彼女にとっては生活費のすべてであった硬貨を献金箱に入れました。その額は、とても少額ですが、それは、生活のすべてを神にささげ、完全に神に献身しているからこそできた行為であったとのことでした。
 そして、イエスは、やもめの態度と生き方に感動され、弟子たちにやもめは誰よりもたくさん献金をしたと言われました。富んでいてもわずかしか捧げることができないという現実があります。神への礼拝で1番大事なことは魂の問題であるということです。
 貧しいやもめのように、自分をすて神に生きることができるということは、神の人といえるということです。
 献金とは、献身のしるしであり、感謝の表現であり、信仰の実践であるということです。
 神の福音のため、人を支えるために用いていただける献金について、私たちはつまずくことがないように、貧しいやもめの信仰にならって、真の豊かさを手に入れたいと思います。
 まだまだ、暑さが続いていますので、教会の皆様が、熱中症にならずに乗り切ることができるように祈りつつ、過ごさせていただきます。